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恩師を訪ねて

~生涯現役~ 山縣英明先生(1951~1995 国語)

 あいにくの雨の中、玄関口まで先生に出迎えていただきました。旧安中高校の前にご自宅があり現在奥様とお二人でお過ごしになられ、東京に娘さんとお孫さんがおひとりおられるそうです。

 退職後はオーストラリアの高校に日本語を教えに行かれ、帰国後、安中市国際交流協会を立ち上げ市内在住の外国人のために様々な活動をしておられます。
日本語教室をはじめとして、ハングル、中国語等の語学研修、水墨画や古典文学等の教室を通じて、お互いの理解を深め、助け合う活動を、多岐にわたりボランティアで行っておられ、15年になるそうです。

  先生は学園の1期生であり、生い立ちも含め伺いましたが、東京のご出身で、戦争で安中の秋間に疎開され、高崎の中学(高校)に通われていたのだが、都会から来られた少年には校風がなじめず、その後学園に入られました。

  学園の感想をお聞きすると、とにかく素晴らしいところだったと断言されました。

  当時の学園には東大をはじめケンブリッジ(英)、オックスフォード(米)などのご出身の気鋭の先生方がおられて、学問だけでなく、人間的にも人格的にも、レベルが高くて、皆、高潔な紳士であったし、先生と生徒の間も少人数で、皆貧しかったせいか、親密で素晴らしいものであった事を話され、草創期の学園での草刈りや校庭整備作業、先生と生徒との様々な共同作業等、楽しそうに語られる様子から、先生の学園に対する深い愛着と感謝の気持ちが言葉の端々から感じられました。学園の今後については、卒業生が皆自分の子どもを喜んで学させるような学園になってほしいし、ひとりひとりを大事に育てて、学園をみんなが誇れるようなものにしてほしいと希望を述べておられました。

  新島で学んだときも、また教師として在籍した時も、学園に教えられた「人につくす」という事を、考え、今自分がやっている事もその恩返しのつもりなのだと控えめに述べておられました。

  少子化で子どもが少なくなっている現状を鑑み、進学等を含めて、学園の前途を心配しておられました。又、様々な部活動の顧問をしていた頃の話等、なつかしそうに、そして「ひと様のお世話ができるように生きていくことが自分の学園や社会への恩返し」とおっしゃるあたり、昔と変わらぬ溌剌として若々しい生涯現役を感じさせる先生でした。

(桜井恒雄、萩原永史)

~運命の岐路~ 里見義康先生(1958~2001 英語)

 学園近くのレストランでインタビュー。

 先生は、お子さんは娘さん3人で、現在、安中市内に5歳年下の奥様と娘さんの3人で住まわれ、近辺に娘さんお2人が嫁がれていて、お孫さんが5人いて、毎日、賑やかに暮らして居られるそうです。

  先生は東京生まれの東京育ちで、大学がICU(2期生)であった為、たまたま、新島のOBの先輩に請われて、他の都内の学校に職もあったが、都会の青年にとってみれば、無縁の土地である安中の新島学園という、田舎の小さな私学(当時は男子校)に来ることを選択されて、今に至っている。「今思えば、 あれが運命の岐路だったのかな。人の一生には、そういうものはあるよ」と話されていました。
あとで知った事ですが、ICUの後輩に湯浅前理事長がいらっしゃって、湯浅さんにいつも「里見さん」と呼ばれていたので面映ゆい感じがしていたようです。

  教員生活のスタートは、有田屋さんの前の林家に下宿され、そこからしばらくの間、学園に通われたそうです。「当時は駅からは砂利道で、校舎は木造で、一学年は2クラスで、冬は暖房もなく、風が吹くと砂埃が教室に入ってきて、江川先生などは外套を着て授業をされていたのを覚えている」とおっしゃっていました。

  学園では英語の教師でしたが、他に教師が少なかった為か他に体育の授業を受け持ったり、部活動では、寮の近くにあった小屋の中で卓球部の活動がおこなわれ、そこで顧問をつとめたり、山岳部を現在市内で医師をされている茂木先生達と共に立ち上げて、当時はまさに生徒も教師も友達みたいだったと言われました。

  学園には43年間勤務され、退職後は、4人の先生(山縣先生、淡路先生、木村先生、里見先生)で、幸せ(別名 シワよせ)会(木村先生亡き後は文殊会)という会合を2ヶ月に1回もたれ、定期的に会って、旧交を温めていらっしゃるとのことです。

  「今後の学園に望むことは?」との問いに、『特に学園に望むことはありませんが、学園の玄関先に設置されている新島先生の「良心の充満せる益良夫のいで来たらん事を」という一節を引き合いに出され、また「寒梅」の詩をも引用されて、自分の考えはこれらに盡くされている』とおっしゃいました。

 12月で76歳になる今もお元気で、囲碁と卓球を趣味とされ、多くのお仲間がおられるようです。「孫の勉強もさる事ながら、他から家庭教師をたのまれたりして、なかなか引退させてくれない」とこぼしておられました。

  印象に残る言葉はとの問いに、シェークスピアの言葉かもしれないが“Life is but a dream.”(人生は夢に過ぎない)と、自らの人生の不思議さと、反対されながらも田舎の小さな学園を選び、その中で、多くの出会いを経験され、生涯を捧げてこられた運命の不可思議さを、感慨深げに淡々と語られるご様子から、笑顔の絶えない、物事にあまりこだわらない事を生活信条のように心掛けて居られる先生に、あらためて尊敬と感謝の思いを深くいたしました。 

(桜井恒雄、萩原永史)

~教師になって28年~ 浅野浩司先生(1983年~現在 英語)

 トレードマークの口髭にお洒落でダンディーな浅野先生、久しぶりだが『変わらず若くてシブい!』あと数年で六十歳を迎えるなんて思えない。そんな先生のもとへ伺ってきた。

 自分自身の六年間サッカーの顧門でもあり、高二・高三は担任でもあった。グラウンドと教室では厳しさと緊張感のある中、かっこいい男の雰囲気も持ち、明るくシャレの好きな先生で、周りの生徒からも人気があったことは言うまでもない。

  言うこと言うことにカッコよさと重みがあり、つい話に聞き入ってしまう。時には真剣に、時には大爆笑、また生徒を巻き込むことが上手く笑いを誘う。そんな先生の新任時の話を伺った。

  先生が学園に新任の教師で来たとき、周りの教員は先生自身の恩師たちの中、浅野先生を対等に接してくれた時の感情が忘れられないという。恩師の懐かしさ、また学園に戻ってきた嬉しさと、これから始まる緊張感との責任の重さを感じた。その思いが今までに繋がるという。
そして今まで教師をやって良かったこととは、今まで様々な生徒に出会えて、生徒からも学ばせてもらった。先生自身に兄弟がいなかったため、学園に入ってから人との関わりがこんなにできて、本当に嬉しく思うと照れながら語っていた。

  また新島学園で教師をして気づいたことは、この学園が卒業生の皆に支えられているということを身を以て感じたという。
同窓生の協力や先輩方の叱咤激励、卒業してもいたる所で人が繋がっていること、卒業期が離れていてもすぐに親しみが生まれること、これは他校が羨む自慢の校風でしょう!と先生は言う。新島学園に生徒で入学できて、そして学園の教師になれて本当に良かった。そこには感謝しかないと、浅野先生は語っていた。私もこの学園と浅野先生に出会えて思春期の自分に絶大な影響力があったことは間違いない事実。そして今の自分自身があると言っても過言ではない。

  ここで余談ですが、浅野先生には知る人ぞ知る『伝説の20日間の日の丸』という逸話がある。先生は学園サッカー現役時代の高校三年と大学一年時に、ユース日本代表(現U―19)候補で召集があり、その時に20日間、胸には日の丸を付けて背中には新島学園を背負っていたことはご存じだろうか。

  趣味も多彩でサッカー・レコード鑑賞・自転車・また近年は体調も崩したとの事ですが、大好きな酒・・・。(治ったらまた飲みたいものです。)

  先生と話していると話題が尽きない、相変わらず浅野イズムは健在である。これからも大勢の生徒に出会う中、変わらずの浅野イズムで厳しさの中にも温かみのあるお洒落なダンディー浅野先生でずっといてもらいたい。
PS・先生、もう若くないのですからくれぐれも体調には気を付けて下さいね。

(青島真一)

 


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