根笹会からのお知らせ同窓会報「根笹」イベントスケジュール同窓会について地区会情報母校情報
トップページ » 同窓会報「根笹」 » 新島学園と国際基督教大学を想う
 

新島学園と国際基督教大学を
想う

新島学園中学校・高等学校 校長 古畑晶


 新島学園「根笹会」の皆様、お元気ですか。

 コロナウイルス感染が、群馬県でも収らない状況であり、更に強力なデルタ株なども発生しております。そのような状況下でも新島学園は、日々教育の灯を消さないように生徒たちを迎え入れております。

 部活動も、練習のできない日々がつづき、大会も中止になるものが多くあります。その中にあって、生徒たちはいつ試合があってもよいように自主的に練習をしております。

 どうか皆様も、手洗い・うがいなどを励行して、お体を大切になさってください。


 昨年は、1学期の休校を受けて夏休みが大幅に縮小されてしまいましたが、今年は、ほぼ平常の夏休みを過ごすことができました。夏休み中、私は何冊か本を読み、考えさせられたことがありました。その中の1冊に、国際基督教大学(International Christian University, ICU)の創立に関わる「国際基督教大学創立史」がありました。

 この本は、1961年ICUの初代学長湯浅八郎先生の退任を機に、出版されたものです。湯浅先生が執筆してはどうかという意見もありましたが、先生は「当事者として深く関わり過ぎている」という理由から、この提案を辞退されました。しかしながら、ICUと日本、また初期の事情や当時の関係者について何も知らない人では、全体をまとめ、適切な説明を加えることは至難であることから、当時を知るチャールズ・W・アイグルハート(Charles W.Iglehart)博士に白羽の矢が立ち、執筆されました。

 当時学長の鵜飼信成先生の序による

 1945年9月(終戦後1か月)に東京女子大学理事会が開かれ、議題の一つが新しいキリスト教大学の設立でありました。その後、1946年6月に国際基督教大学建設委員会へと進んでいき、ICUの設立に発展していくのです。

 遡ること約100年前の1859年(安政6年)に、6人の宣教師が一流のキリスト教大学を創ろうという願いを持って来日しました。ミッションスクールを開校し、日本人が必要とした西洋文明の知識や情報を伝え、キリスト教教育の場として用いられました。

 それが、明治学院の創設者J・C・ヘボン(James C.Hepburn)、立教大学の創設者C・M・ウイリアムズ(Channing Moore Williams)、東京帝国大学前身校の一つを設立・指導したG・H・F・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)等でありました。

 このような時代に、キリスト教高等教育において、傑出したリーダーシップを担った日本人が新島襄でありました。

 1864年に日本を密出国した新島は、ボストンでアルフィアース・ハーディー(AlpheusHardy, 船舶会社社長で会衆派キリスト教会のアメリカ外国ミッション・ボードの局長)に出会いました。米国で大学・神は、別れの挨拶をし、故国にキリスト教の大学を設立したいという志を熱心に訴えました。その結果多額の寄付金が寄せられ、この資金で1875年京都に同志社英学校を開くことができました。新島没後同志社大学となるのですが、その話は、ここでは割愛します。それ以降、同志社は日本最古のキリスト教学校として今日にいたっています。新島襄は同志社を第一級の総合大学にする夢を抱きつづけ、1880年代後半には、健康も顧みず、まさに生命を賭して国内の財界や政界の有力者に単身で協力を要請してまわりました。新島没後、創立された同志社大学後代の同志社総長湯浅八郎先生はICUの初代学長となりました。


 話をICUに戻すと、1946年アメリカから日本国民のために何か役に立つものを提供したという申し出があったとき、ICUの立案者たちに協力しその考えを知っていたある占領軍担当官は、少なくとも一つの計画書を作成して提出しました。その計画書によれば、目標とする大学は国際性を志向する専門分野を提供する総合大学でありました。

 しかしながら、湯浅八郎先生は財団への第一回学長報告で、次のように述べています。(JICUF 1953.1.29)

 従来の日本においては、大学は専門分野の研究に徹すべきだとする考えが主流であったが、ICUはこの考え方とは別の途をたどっている。われわれは一般教養と広い文化的基盤を学生に提供している。ICUは、四年制の教養学部を備えた大学(カレッジ・オヴ・リベラルアーツ)を新生日本に建設することにより、新教育におけるパイオニアたらんとしている。四年制教養学部を備えた大学とはアメリカの制度をそのまま、そっくり真似たものではなく、新しい世界が、現在、あるいは未来において必要とするものに、われわれを適合させていこうとする大学である。

 このようにして、日米のクリスチャンの厚い祈りと寄付によって、1952年に大学設立に先立って語学研修所が開設され、翌1953年4月国際基督教大学として発足したのであります。

 私は、国際基督教大学と同じ教育理念を持ち、1978年に同法人の元に誕生した国際基督教大学高等学(International Christian University HighSchool, ICUHS) で35年間(1980年~2015年)数学科の教員として働き、管理職として教頭の任務も与えられました。

 私が高等学校に就任当時は、湯浅八郎先生もお元気で入学式や卒業式に学校法人国際基督教大学理事長としておいでくださり、生徒への祝辞をいただきました。そのスピーチには必ず次のフレーズがありました。「ご父兄の皆様方の一人あって二人とない大切なお子さんを、ひとつあってふたつとないこの学校によくぞお預けくださり…」というものでした。この言葉の中に、生徒一人ひとりが大切な存在であり、掛け替えのない存在であるという、先生の生徒を愛する思いが込められていました。


 現在、新島学園の校長をさせていただいて3年目になります。安中に来て、新島学園について沢山のことを学ばせていただきました。

 はじめに、安中「有田屋」三代目当主湯浅治郎氏の話をさせていただきます。

 彼は、福沢諭吉の著書に親しみ教育の重要性に目覚め、明治5年(1872年)に安中に私立図書館「便覧舎」を設置し、図書館事業の先駆となりました。明治11年(1878年)自ら建設に携わった安中教会で新島襄先生よりキリスト教の洗礼を受けました。政治家としては、明治16年(1883年)群馬県会議長として廃娼運動の先導役となりました。その後衆議院議員となりますが、新島先生の没後、明治25年(1892年)京都に移り住み同志社を立て直すために理事として尽力しました。20年間無給で同志社のために尽くしましたが、それを誇ることはありませんでした。「我生涯に於いて、何も為したことはないが、唯安中教会の会堂を献ぐることに、聊か尽くすことが出来たのは、何よりの満足」(「追悼集」)と自負する謙虚さがありました。

 治郎氏には、14人の子供がおりそれぞれが著名な働きをしています。ちなみに、8番目のお子様が湯浅八郎先生であります。

 湯浅治郎氏の孫で湯浅正次氏が、安中「有田屋」五代目の当主となりました。安中市長を20年間つづけるほど安中を愛しておられました。戦前から新島襄先生の教育理念を備えた学校を安中に設立したいという思いが、安中教会を中心としたクリスチャンの間にありました。戦後の1947年に、湯浅正次氏を中心に安中のクリスチャンの厚い祈りと思いにより、私立新島学園が設立しました。名前にあるように新島とは、新島襄のことであります。

 初代理事長兼校長となられたのが、当時第12代同志社大学総長であり、後に初代国際基督教大学学長となられた湯浅八郎先生でありました。

 新島学園・同志社大学・国際基督教大学のトライアングルが湯浅八郎という人物を中心として結びついていることを実感しました。そのうちの2つの学校に携われたことを、神様に感謝しております。

 特に、戦後の混乱の中から、世界に貢献できる人材を育てていく教育機関をという想いから新島学園が、国際基督教大学が設立されたということを感慨深く思わされております。

 また、新島襄という人物の教育理念がそれぞれの学校で受け継がれていることに神の摂理を感じることができます。


 一人ひとりの生徒を大切にして、教育活動を進めてまいる所存でございます。

 行き届かない点が多々あると思いますが、新島学園「根笹会」の皆様の新島学園へのご支援・ご協力を、よろしくお願いいたします。


新島同窓会報「根笹」

新島学園中学校・高等学校 新島学園短期大学