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恩師探訪 山縣英明 先生

新島文化研究所 星野伸樹

 2021年6月3日(木)、新島学園中学校・高等学校の第1応接室で山縣英明先生にインタビューをさせていただく機会を持ちました。学園の創立当時の様子をお伺いしたいと申しましたところ、快くお引き受けくださいました。

 山縣先生のご自宅は旧安中高校のお近くです。当日は、歩いて学園までお越しくださいました。御年89歳ですが、矍鑠という言葉を使うのをはばかられるほど、お元気な様子がうかがえました。現在でも安中市国際交流協会の顧問および、日本語教師として活動され、外国人への日本語の先生として授業ボランティアをなさっています。安中市国際交流協会は、その設立に大きく関わり、会長として長らく活躍されておられました。そのバイタリティーあふれる行動力と、往時を偲ばせる若々しさは、まさに「万年青年・一生現役」といった感じです。当日は、新島学園中学校・高等学校の古畑晶校長先生もインタビューにご同席くださいました。

 山縣先生は、2014年に『昭和の激流の中で』という題でご家族の歴史書を出版し、その翌年には、自叙伝『昭和の激流の中を』を出版されています。今回は、この自叙伝『昭和の激流の中を』の内容にそって、お話をうかがいました。

 以下、伝え聞きの部分が多く曖昧な表現がある点はご容赦ください。なお、ご本人を第一人称として、自らが語る文体としたために、敬語が不適切な部分があります点はご容赦願います。

自叙伝「昭和の激流の中を」

古畑校長先生と一緒に/新しい職員室を視察/同窓会名簿をご覧になる様子


 山縣英明は、東京の出身で1932年に本郷で誕生。幼少期の日本は、当時の満州国の資源開発等の影響もあり、国内景気はまずまずであった。父は洋服仕立て業を営み、従業員も数名使い、忙しいながらも幸せな生活だった。5歳の頃に東京郊外の豊島区に自宅を建設して移住。当時の池袋周辺は、まだ自然が豊かで、田畑も多く、トンボが飛びフナやザリガニが釣れる池もあった。

小学校を卒業、豊島中学校(第三東京市立中学校、現在の都立文京高校)に入学。そのころから日に日に戦局は悪化、東京大空襲を体験。一家で、父の故郷でもある群馬へ疎開を決意。実は、山縣家はかつて、現在の高崎市豊岡に住んでいたことがある。私の五代前の先祖である「山縣友五郎」が、高崎の「縁起だるま」造りの始祖である。

 荷車に積んだ家財道具を引いて、父と二人で徒歩にて出発。約120キロメートルを、四昼夜かけての大移動であった。この経験は、以後の人生において、苦難にめげないたくましさと、「なんとかなるさ」という心の強さの原点となった。

 群馬では、旧制高崎中学校の2年に転校し、学校生活を送る。残念ながら群馬の公立学校の荒っぽい校風には、あまり良い思い出は無い。終戦を迎え兄の戦死などもあり、家業である洋服仕立て業を継ぐべく高崎中学を四年終了時で自主退学。家業を助け、洋裁の腕を磨きながら、農作業などにも精を出した。

 その後、就職することも考えたが、親戚から進学のすすめがあった。家族に相談し、進学を決意し、創立4年目の新島学園への編入試験を受け合格。新島学園第1期生として、高校2年生の生活が始まる。

 新島学園では、その自由な雰囲気はもちろん、高崎中学時代とは比べものにならないほど充実した学園生活が待っていた。一生の中でも最も充実した学びの時となった。当時は終戦後の混乱期でもあり、戦地に赴いた教員も多かった。教員の確保は非常に難しいものだったと思う。

 一般的な学校においては、いわゆる代用教員を採用せざるを得ない時代であった。そんな時代に、新島学園の先生方の経歴や学歴は目を見張るものがあった。東京帝国大学・北海道帝国大学・帝国美術学校卒業などの国内はもちろん、ケンブリッジ大学、エール大学、オベレン大学、アウバン神学校、など国内外の超一流校を卒業・修業した先生方や、アメリカ人の英会話の先生もいらしたのである。そして、そうした先生方は敬虔なクリスチャンも多く、学歴だけでなく、その人柄も素晴らしい方々が多かった。戦争を体験し、『敗戦後の社会を新しく作る』、『キリスト教主義の学校を建てる』という理念に共鳴した方々が集まったのだと思う。本来ならば、大学教授となるような先生方が、片田舎の小さな私立学校で、理想と思える教育を実践していたのである。当時の先生方には、本当に親身になって育ててもらったという思いが強い。

 新島学園の第2期生は、新制中学校の1年生である。それ以上の学齢者は第1期生として学んだので1期生の年齢はさまざまであった。従軍経験を持つ同級生や、他校からの転校生もいた。それゆえ、編入で高校2年からの合流であったが、あまり気にならなかった。また、学校では、アメリカンボードからの奨学金を受けることが出来た、本当に有り難かった。部活動としては文芸部に入って活動した。授業ももちろんだが、松島一男先生には部活動でも非常にお世話になった。

 学校は工場の跡地であり、コンクリートの基礎がむき出しの部分が多かった。放課後に、先生方と一緒になって、そうしたコンクリートをツルハシやハンマーでたたき割って校庭を作る手伝いをした。自分たちの学校を、自分たちの手で作ったのだという思いが非常に強い。今でも学園の校庭に立つと、その時のことが思い出され、感慨もひとしおである。学園の教育の五原則の一つ、「勤労を尊び、天然資源の利用を学ぶ」を、まさに地で行く取り組みであった。また、先生と生徒が一緒に行う勤労体験は、学生歌1番の「友は我が師、師は我が友」そのものであった。

 高3の春には修学旅行があったが、経済的な理由もあり参加は控えた。担任の山崎金治郎先生は、修学旅行に行けなかった生徒2名を、中学1年生の遠足の引率アシスタントとして同行させてくれた。2人だけの思い出の「修学旅行」である。

 大学受験の準備は短かったが、本当によく勉強をした。授業でも厳しく鍛えてもらい、実力向上が感じられた。受験の時の参考書なども、そのほとんどは先生方からいただいたものであった。第一志望の東京都立大学への合格を伝えると、先生方は我が事のように喜んでくれた。

 大学時代は、本来の自宅のある東京に住んだ。学業とともにアルバイトや多くの活動に精を出した。父の手ほどきで、洋服の仕立て技術はすでに身に付いていた。スーツやズボンを作ったり、修理をすることも出来たので、学生としては高額のアルバイト収入を得ることができた。大学3年の時に父が他界。いよいよ一家の長として家庭を支えなければならなくなった。

卒業が近くなり、いくつか入社試験にも臨んでいた。そんな時に、母校の新島学園から国語教師の誘いが来た。恩師の山崎先生の薦めもあり、群馬に戻っての生活を決意した。家族を東京に残し、一人での群馬の生活である。当時の新島学園の初任給は約8000円、学生時代に洋裁のアルバイトで得ていた月収の方が高額であった。しかし、自身を鍛えてくださった恩師の先生方とともに、母校で働くことは、非常に誇らしいものであった。同様に、恩師から「山縣先生」と呼ばれることには、自分も教職員であるという覚悟と緊張感がみなぎった。

 新任教員であることから、学校業務ではさまざまなことをやった。文化部では「図書部」の担当であった。運動部はいろいろな部の顧問になった。本来スポーツは得意ではなかったが、技術の高い生徒に教えてもらうこともあり、自分でも技術の向上が見られ楽しかった。こうした経験も「友は我が師、師は我が友」である。関係した部活動は、バスケット、陸上、相撲、剣道、バドミントン、硬式テニスなど多岐にわたり、これだけでも学園の発展を感じることが出来る。

 ある時、山崎金治郎先生から、私と淡路博和先生が相撲部の土俵(現在の格技場のあたりにあった)の所に呼び出された。その時の卒業生教師は我々2人だけであった。そこで、深刻な話を切り出された。「北海道に新設されるキリスト教主義の学校に校長として誘われている。新島学園を勤め上げたいので今は非常に悩んでいる」という話であった。私は、恩師と別れることとなるかもしれない事を寂しく感じつつも、先生のキャリアアップに繋がることだと感じた。「行くべきだ」というようなことを話したのを覚えている。私と淡路先生が呼ばれたのは、山崎先生が熱心に誘ってくださり我々は採用となった経緯もあり、自らが新島学園を離れるのを辛く思っておられたためであろう。その後、山崎先生は、北星学園余市高校の校長として任地へ旅立った。その学校では新島学園の『教育の五原則』をそのまま使っていたと聞いている。

男子校だった新島学園にも、共学化の話題が登るようになった。20期高校1年生、23期中学1年生から女子生徒を順次入学させることになった。女子の入学と共に、女子制服を作ることとなった。洋裁の心得があり、実際に仕立屋の経験を持ち、服飾について詳しいということで、女子制服選定委員となった。

 作るからには、他校と明確に区別がつく《上品な物》を目指した。東京の名門校やデパートの服飾担当者にも当たり、いろいろと比較をするなどして計画を進めた。最終的に、グレー生地でダブルのジャケット、折り返した襟の部分は紺色。スカートはボックスプリーツ型で紺色。グレーの共生地でやはりダブル仕立てのベスト。ボタンは花をモチーフにしたような、柔らかな雰囲気の樹脂でできた角を丸めた四角型。当初はベレー帽も付属していた。自画自賛になるが、今見ても良いデザインだと思う。

 初年度は、女子の入学者も少なく、数が見込めないことから県内の業者は扱ってくれなかった。東京の三越デパートが扱ってくれることとなった。今のように宅配便が無い時代であった。入学式に間に合わせるために、東京から配送された制服を、教職員で手分けをして、新入生の家庭に届けた。

 娘も新島学園の卒業生である。自分のデザインした制服に、我が子が身を包んで登校するのは非常にうれしいことであった。

 一旦終了

新しい職員室を視察/同窓会名簿をご覧になる様子


追記1

 聞き手である私は32期卒業生で、山縣先生には学年担任としてお世話になりました。残念ながら学級担任のチャンスには恵まれませんでしたが、「古文」の授業は高校3年間お世話になりました。「山縣古文」の信奉者を自認しています。「ど、ども、ば、り、は已然形」「未然【ば】ならば、已然【ば】なので、から、と、ところ…」「あり、をり、はべり、いまそかり」…などは、山縣古文の授業を受けたことのある人ならおなじみのフレーズでしょう。こうしたフレーズで、難解な文語文法もいつの間にか身についてしまうのです。授業について行くだけで、特別な対策も必要無く、大学入試問題が解けるようになりました。同僚の国語教師となってからも、理想の国語授業の一つのスタイルだと考えていました。授業参観等で、「山縣古文」を知る人から、山縣先生の授業に似ていると言われた時には、本当にうれしく思いました。

 今回参考にさせていただいた自叙伝『昭和の激流の中を』の前半部の、誕生から大学受験までの部分は、そのほとんどが高校3年の「日本史」の最終課題を使ったものだそうです。大学受験を控えた年末年始、受験への不安やあせりから、自暴自棄になりながら大晦日も正月も無く丸二日間で書き上げたのだそうです。原稿用紙54枚にわたる大作です。授業担当の篠原博先生からは、「まとまりも良い。事実の取捨選択も完璧に近い。努力に感謝する。」という最大級の評価をいただいたというのもうなずけます。「この課題を書き上げてからは、不思議と落ち着いて、受験勉強に身が入るようになった」のだそうです。自ら取り組むという点で、まさにアクティブラーニング。普遍的な学習活動だったのです。

 まだまだお聞きしたいことはたくさんあります。しかし、名残惜しみつつ、最後にいくつか質問をさせていただきました。

《クラス礼拝では、旧讃美歌の90番を歌う!というのを同級生から聞きました…》
校歌は1958年の制定である。それより前の時代はこの「ここも神の御国なれば~」を校歌の代わりとして歌っていた。

《しばしば『天邪鬼になれ!』とおっしゃっていました。その真意は…》
個性の尊重が大切だ! 教育の五原則には【一人ひとりの生徒を愛し、その人格を重んずる】がある。やはり、私立学校、特に新島学園では一人ひとりの生徒を大切に育てなければならない。

《自動車がお好きですよね。ガルウイングドアのトヨタ・セラに乗っていた時期がありました…》
車は妻が選ぶ。スタイルの良いスポーツタイプが好きなようだ。(やや照れながら)

《これからの新島学園にのぞむことを一言お願いします…》
創立当時から「生徒を大切にする学校」だった。規模が大きくなってもそうあり続けて欲しい。五原則の【一人ひとりの生徒を愛し、その人格を重んずる】を守り続けて欲しい。

 新島学園第1期生にして、卒業生教師第一号。おしどり夫婦。ダンディーで素敵な先輩です。
 あらためて、いつまでも若々しい山縣先生でいて欲しいと思いました。


追記2

新島学園中学校・高等学校の制服について

 1947年終戦直後の開校であり、制服などの規定は無く、まずは学校に集うことを重視していた。男子校であり学生服を着用していた生徒も多くいた。制服制定前の高校の卒業式では、卒業生は背広姿で参列する事が多かった。

 1968年女子の入学にあわせて女子制服が制定。20期高校1年生(21名)、23期中学1年(14名)。男子制服は1980年高校生32期高校1年生、35期中学1年生から順次制定。

 現在の新島学園の制服は1998年にマイナーチェンジをしている。その時にも三越デパートがひと役かってくれた。その時の三越デパートには、新島学園が初めて制服を作った時の事を覚えているデザイナーがまだいたのである。基本のスタイルは変更せず、体格が良くなった現代の生徒の体格に合わせたものとなった。グレーがやや濃くなり、スカートのボックスプリーツは前後左右1つずつ増えた。ボタンは金ボタンになり、ダブルの袷は変わらないが、4つボタンは2つボタンに変更。襟や裾が丸くカットされている。共生地のベストは、紺のニットベストに変更となった。

 新島学園の女子制服は、今見ても非常に上品だと思う。マイナーチェンジの時に三越のデザイナーが「上品で非常に優れたデザイン、基本的な所は変える必要が無い」と語っていたことが印象的である。


新島同窓会報「根笹」

新島学園中学校・高等学校 新島学園短期大学