新島学園短期大学 宗教主任・准教授
山下智子
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新島学園の精神といった時に、もちろん新島襄について語らないわけにはいかないだろう。しかし新島学園が受け継いでいるのは新島襄の精神だけではない。
わたしたちの誕生に父と母の存在が不可欠であるように、新島学園の誕生にも新島襄とともに湯浅治郎(1850~1932)という人物の存在が不可欠であった。襄が表に立ち新島学園を支える精神的父親ならば、それを背後で支える精神的母親は治郎といってもいいだろう。
湯浅治郎の生涯は、【1】有田屋の跡取りとしての時代(0~27歳)、【2】クリスチャン政治家・社会事業家としての時代(27~39歳)、【3】同志社時代(39~60歳)、【4】新島襄記念会堂建築の時代(60~81歳)の4区分に分けると理解しやすい。
ここでは、2014年7月12日に安中根笹会で行った講演を踏まえ、湯浅治郎の生涯と、彼の存在が新島学園にとってどの様な意味を持つのかを見ていく。
湯浅治郎は安中・有田屋の3代目として1850年11月24日に誕生した。湯浅家は父・治郎吉の代から名字帯刀をゆるされ、商人ではあったが武士並みの扱いを受けていた。
治郎は勉強熱心な性格で、正式な教育としては松井田・桃渓書院(藩主・板倉勝明らが一般市民の為に設立した学校)で漢学や数学を習ったぐらいだったが、若い頃は横浜に行って南京豆や魚油の輸入販売をしたり、農学者・津田仙(新島襄の友人、津田梅子の父)の説に従い自ら稲作の改良を行ったり、よい蚕種を地域の農家に配ったりと、色々な新しい取り組みをした。
また、財政にたけていたので、廃藩置県後には京都の藩邸の処分を命じられもした。
この時代の治郎の活躍で特に覚えておきたいのは1872年に日本最初の私設図書館・便覧舎をつくったことである。
3000冊の蔵書を誰でも無料で利用できるという画期的なものだった。
そんな治郎が大きく飛躍するきっかけとなったのが新島襄との出会いである。
1874年、襄はアメリカ留学を終え10年ぶりに帰国して安中に約一か月滞在し、精力的に地域の人々にキリスト教の話をした。今年は襄が群馬にプロテスタント・キリスト教を伝えてちょうど140年の節目である。
残念ながら襄は、属していた宣教師派遣団体・アメリカンボードの意向もあり、キリスト教学校をつくるためすぐに関西へ旅立ってしまったが、治郎は襄の伝えたキリスト教に興味を持ち、千木良昌庵ら仲間たちと聖書の勉強会をおこなうようになった。
1878年3月31日、湯浅治郎は新島襄から洗礼を受けクリスチャンとなった。同時に安中教会の設立式も行われ、その日洗礼を受けた治郎ら30名は安中教会最初の信徒となった。
便覧舎2階が洗礼式・設立式の会場だったことからもわかるように、治郎は安中教会を中心で支える存在だった。
晩年に治郎はクリスチャンになったことにより「人生の目的も悟り、天地が明るくなり、万事が新たになり」と語ったが、洗礼は治郎の人生にとってのターニングポイントだった。もともと利他的な面が見受けられた治郎だが、これ以降家業にくわえ、社会をよりよくするため積極的にクリスチャンの政治家・社会事業家として大きな働きを為していった。
政治家としての治郎は、群馬を全国初の廃娼県にする立役者となった。
1880年、群馬県会議員となると、その人柄と手腕を信頼され翌年から10年間県会議長を務めることになった。そして治郎と仲間の議員たちの働きにより1882年には「娼妓廃絶の建議」が可決されたのだ。これは女性の人権や、社会の風紀を守る点で目立ったものだった。
また、群馬での活躍を足がかりに1890年、治郎は帝国議会衆議院議員となった。治郎のように国家の財政を判断できる人物は数少ないので、やがては財務大臣と大いに期待された。
社会事業家としての治郎は幅広い活躍をした。その一部と紹介すると、1881年日本鉄道会社理事となり群馬への鉄道建設にかかわったが、これは東京から内陸にむかう初めての鉄道であった。
また、1883年に碓氷銀行を設立し、1886年に国光社(器械製糸事業)を設立するなど地元の発展に尽くした。さらに1883年、覚醒社というキリスト教出版社を設立しキリスト教伝道に尽くし、1887年、義弟の徳富蘇峰(二番目の妻・初の弟)とともに民友社を設立し、副社長となるなど出版関係でも活躍した。