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同窓生として見る世界遺産
『富岡製糸場と絹産業遺産群』

42期 高橋 司

 2014年6月、新島学園の所在する群馬県から世界文化遺産が誕生しました。県内4つの文化財で構成される『富岡製糸場と絹産業遺産群』です。
 私は、下仁田町役場教育委員会で、文化財保護行政に携わり、絹産業遺産群のひとつ『荒船風穴』の保存管理を行政職として務めております。そのような立場から、ご指名を頂き、僭越ながら筆を持たせていただきました。


 『富岡製糸場と絹産業遺産群』が物語る顕著で普遍的な価値は、長い歴史の中で、人類の羨望の的であった素材“絹(シルク)”の大量生産を実現した「技術革新」と、世界と日本との間の「技術交流」です。

 古代ローマ帝国では〝絹(シルク)〟は金と同じ価値で取引され、あまりにも高価なため、その着用を法規制されたという歴史を持ちます。

 また、絹という素材の流通のために、シルクロードのような文化形成を織りなす道まで存在したという人類にとって特別な産物であったものです。これらを大量生産することを可能にした技術の集合体でストーリー展開されたものが『富岡製糸場と絹産業遺産群』です。

 

世界遺産の種類と性質

 世界遺産は、屋久島や小笠原に代表される「自然遺産」、京都や奈良に点在する「文化遺産」、これらの複合的な要素をもつ「複合遺産」の3つに大別されます。

 また、「文化遺産」の中には、どちらかというと派手な「モンサンミッシェル」や「アンコールワット」などの豪華な建造物がある一方、ドイツの「フェルクリンゲン製鉄所」やポルトガルの「ピコ島のブドウ園文化の景観」など一見地味な産業遺産も数多くあります。

 『富岡製糸場と絹産業遺産群』も産業遺産であり、「マチュピチュ」や「富士山」などと比べれば、一見地味で素朴な存在かもしれません。

 しかしながら、文化財の見方は、人間の見方と同じで「派手ならばいい」ということではなく、その本質を見る事が重要で、「地味だけど良い物」、「付き合ってみれば素敵な面がたくさんある」といったことが多々あります。

 

荒船風穴のご紹介



荒船風穴

 私が文化財担当として世界遺産登録に関わった『荒船風穴(下仁田町)』は、『富岡製糸場と絹産業遺産群』の中でも、最も山深くに位置し、ひっそりたたずんでいる産業遺産です。

 正式名称は『国指定史跡 荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所跡』といい、電気冷蔵庫が普及していなかった時代、天然の冷風を活用し、貯蔵庫として利用された施設の遺跡です。

 正式名称にある〝蚕種〟は繭を形成するお蚕様の卵のことです。

 お蚕様の卵を冷風にさらし貯蔵することにより、通常は春の年1回の自然ふ化であった「養蚕」を複数回行うことを可能にし、また、安定化が図られました。大正6年にはこのような蚕種貯蔵のための風穴が全国に239か所設置された文献もあります。

 全国に存在した風穴技術の象徴的な存在で、荒船風穴は、西上州の山間にありながら、全国40道府県との取引を行いました。当時あった建屋は失われたものの、その大ぶりな石積み遺構は現存し、これらの文化背景や遺構価値が認められ、国史跡に指定され、その後、世界文化遺産の構成資産となりました。

 この遺跡の楽しみ方をいくつかご紹介します。

 まずは何と言っても天然の冷風です。明治の操業当時と変わらぬ冷風が噴き出ていて、石積み遺構の中に設置した温度計では、2013年8月の平均気温はマイナス2・5度です。真夏でも氷点下以下の温度が記録され、これらの自然現象を先人が巧みに絹産業の根幹となる貯蔵ビジネスに利用し展開しました。

 今では石積みの横からの見学のみですが、十分その冷風を体験することができ、歴史文化を体感できる数少ない遺跡です。

 また、ちょっとマニアックですが『石積み美』も見事なものです。城郭の石積みとは違う産業遺産ならではの石積みで、冷風を確保しながら積まれた職人の息遣いとともに遺構面を楽しむことが出来ます。

 このように『荒船風穴』は、決して目立つ存在ではありませんが、今から100年以上も前の人たちが、環境に一切負荷のかからない冷蔵ビジネスを実現し、創意と工夫で全国規模のビジネスとして展開した歴史は、エネルギー問題を抱える日本が再検証すべき産業形態です。

 

新島襄先生と近代産業遺産

 下仁田町にはもう一つ近代産業遺産として注目を集める『中小坂鉄山』(下仁田町指定史跡)があります。この遺跡も富岡製糸場と同じで、官営と民営が歴史の中で交差し、日本が近代化へ向けて躍進した時代の産物です。

 1860年(万延元年)、遣米使節としてアメリカに渡った小栗上野介が帰国後、作成したのが「上州小坂村溶鉱炉取り立ての建議」です。近代化を目指す日本がこれからは、鉄を作れる国、使いこなせる国にならなければならないという思いから作られたものです。

 『中小坂鉄山』は、釜石製鉄所とほぼ同時期に鉄鉱石の採掘、精錬、製品化まで行われた日本近代製鉄の先駆的存在です。

 1874年(明治7年)12月2日親戚・知人8人とともに新島襄先生は、当時最新鋭の溶鉱炉を持つ中小坂鉄山に訪れた記録があります。その詳細は、先年の同誌「根笹」にて淡路先生が執筆されていますのでご参照いただきたいと思います。

 いずれにしても、富岡製糸場の開業は明治5年で、その2年後には新島襄先生も下仁田・富岡の地を訪れています。

 とかく「世界遺産」というと遥か遠い歴史の中で語られる場面が多々ありますが、新島襄先生がご活躍された時代の象徴的なものとして『富岡製糸場』を見ることが出来ます。 

 我々同窓生にとっては新島襄先生という師の軌跡、時代を介在させて、近代化の幕開けをした「明治」という時代を振り返ることができ、幾重にも楽しむことが出来る文化財が世界遺産となったことと理解しています。


中小坂鉄山


新島同窓会報「根笹」

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