「新島学園との出会い、それから」元新島学園中学校・高等学校教師小瀧秀夫(21期卒) |
もし新島学園に入学していなかったらどんな人生を歩んでいただろうか、と考えることがよくあります。ひょっとしたら、やくざにでもなって刑務所にでも入っていたかもしれません(半分冗談ですが)。それくらい新島学園は私のその後の人生を大きく変えてくれました。
それでは何故新島学園に入学することになったのか、それは亡くなった父親に感謝するしかありません。吾妻の山奥から新島学園に入学できたのは、信心深い父親の「新島学園は勉強するだけの学校じゃない、人間にとって大切な神様の勉強する学校だ、だからお前はそこへ行け。」の強いひと言でした。第二次大戦中、死線を彷徨った元軍人の父親の、息子に対する愛情だったのかもしれません。
1969(昭和44)年晴れて新島学園に入学することができました。清心寮での生活、制服もない自由な校風、都会出身者の多い環境は田舎の公立中学出身の私にとってすべてがカルチャーショックそのものでした。 毎朝の礼拝、それまで出会ったことのない紳士的で博学な先生方、そんな環境の中で私の人生の羅針盤が形成されていった、といっても過言ではありませんでした。
高校卒業後、縁あって同志社大学に進学、大学を卒業する1976(昭和51)年は第一次石油ショックのあおりで大変な就職難でした。
大学の就職セミナーで、担当の大学教授から「いいですか皆さん、まともに就職できるできると思ったら大間違いですよ。一に縁故、二に縁故、三・四が無くて、五に実力の時代なんですよ。」と言われたのを今でもはっきりと覚えています。
そんな厳しい時代に恩師である篠原博先生、尊敬する岩井文男校長先生から、「新島学園に戻って教師をやってみないか。」とのありがたくももったいないお言葉を頂戴しました。自分の力量や来し方をふまえ悩みながらも、篠原先生の「とりあえず五年・十年やってみなさい。」という励ましのお言葉に甘え、1976年の4月から新米教師として新島学園に奉職することになりました。
あれから40年(どこかで聞いたフレーズですが)、こんなにも長く、しかも新島学園のような特別な学校に勤められるとは思ってもみませんでした。これもひとえに同僚の諸先生方や新島学園で出会った生徒の皆さん、保護者の皆さまの温かいご指導の賜と心より感謝申し上げる次第です。
この3月末をもって退職いたしましたが、40年間を振り返りますといろいろなことが思い起こされます。
就職すると清心寮のOBということもあって、今は無き岡部鎗三郎先生や石田愛子先生のご指導の下、清心寮の舎監を務めました。
昼は学校で授業や部活指導、夜は清心寮で寮生と寝食を共にする生活で、毎日が修学旅行のようでした。私生活部分のほとんど無い暮らしは若い身空につらい時もありましたが、貴重な経験、学びの機会でありました。曲がりなりにも40年間勤められたのは清心寮での舎監としての経験があればこそと言えます。岡部先生、石田先生に、舎監だか寮生だか分からないような若僧の自分を面倒みていただきましたこと本当に感謝であります。あらためて私は偉大な先輩教師の皆さまに恵まれたことを痛感しております。
教師の仕事は授業だけでなくクラス運営や部活指導、校務分掌等々多岐にわたりますが、若い頃は部活指導にウエイトが置かれていました。部活のために学校へ行っていたような時代もありました。
大学時代まで趣味のスキーを続け、ウインタースポーツには多少自信があったので、夏は卓球部、ソフトテニス部、陸上部などを担当し、冬はスキー・スケート部のお世話をさせていただきました。冬のスキー・スケート部では部員たちの頑張りで関東大会やインターハイに連れて行ってもらいました。部員たちと一緒に汗を流した思い出は私の生涯の宝物となりました。
また、クラス運営では7学年の学級担任をさせていただきました。当時は担任持ち上がりが多く、6年間持ち上がりが3回、高校3年間の持ち上がりが2回ありました。とりわけ中一から高三まで担任し、卒業生を送り出す時には、卒業生一人ひとりが自分の親子兄弟のような気持ちになったことを懐かしく思い出します。
よく教師は授業と学級担任、部活指導ができて一人前と言われますが、私の場合、授業についてはあまり自信がありませんでしたが(すみません教師にとって最も大切なものなのですが)、学級担任・部活指導の分野においては何とか頑張れたかな、と勝手に思っております。しかしながら授業・学級・部活の3点セットからすると、私は最後まで三分の二人前教師でありました。
五十代の半ば、そろそろ教師生活の締めくくりを迎える頃、当時の市川校長先生から母校である同志社に戻って新島襄先生や同志社と新島学園について学び直して来い、というありがたいお話をいただきました。
2009年の春学期、約半年間同志社大学神学部の研修員という形で、新島襄研究の第一人者であられる、当時同志社大学神学部教授 本井康博先生の下で学ばせていただいたことは新島学園教師時代最良のご褒美でした。
その後、同志社大学を中心とした「キリスト教主義学校連携ネットワーク」において、全国のキリスト教主義学校との交流に務め、同志社との連携に動き回ったものの、与えられたご褒美に十分報いることができませんでしたこと大変申し訳なく思う次第です。
せめて同志社研修の記念にと、その昔新島襄先生が弟子の徳富蘇峰らを伴って安中へ里帰りした中山道を、研修最後の夏休みに自転車で約500㎞を3泊4日で群馬まで帰省したことが懐かしい思い出です。
それから忘れられない体験は2011年3月11日の東日本大震災です。地震発生時私は62期の高校1年生約220名と共に羽田空港の上空におりました。
沖縄修学旅行の帰路、さあこれから着陸という時に地震が発生しました。羽田空港は閉鎖され全国の主な飛行場はパニック状態で、国土交通省の最終判断は離陸した飛行場に戻れ、というものでした。
給油場所を求めて彷徨し、関西空港上空で旋回しながら順番待ちでようやく給油、沖縄の那覇空港に引き返しました。日本旅行社の努力でようやくたどり着いた那覇のホテルで観た東北地方の悲惨な映像は衝撃的でした。幸いにも翌日の臨時便に乗ることが出来ましたが、羽田空港からの帰路、首都高速から見えた先端の傾いた東京タワーの姿は震災の揺れの大きさを物語っていました。
もう一つこの年に貴重な体験をすることが出来ました。
ACEF(アジアキリスト教教育基金)のバングラデシュ・スタディーツアーに参加したことです。バングラデシュはアジア最貧国の一つで、貧しさから公立の学校に通えない子供たちのために寺子屋(小学校)を贈るキリスト教団体の企画でした。 電気も届いていない山村の掘っ立て小屋のような寺子屋学校で、はだしの子供たちが目をキラキラさせて勉強している姿は、私たちが豊かさの中で忘れかけてしまった大切なもの思い出させてくれました。
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2011年という年は私にとりましても、大げさでなくその後の生き方を変える年となりました。
振り返って、私は新島学園のため何ができたのか、と問われると考え込んでしまいます。素晴らしい大先輩の先生方のご指導をいただきながら、また温かい同僚の先生方と共に、特別な学校新島学園で、特別な生徒たちと共に過ごすことができたことにただただ感謝するばかりです。
私にとって特別な学校、特別な生徒たちとは、他の学校にはない、新島学園ならではの校風とそれを体現している生徒たちを意味します。そんな新島学園に生徒として、教師として延べ43年間も過ごせたことは私の誇りです。
最後になりますが、生徒・教師として新島学園は卒業いたしますが、新島学園時代に教えていただいたこと、学んだことを「それからの」人生で少しでも生かして行ければと願っています。新島学園と学園に連なる同窓生をはじめとする関係者の皆さまに心より感謝申し上げ、拙い文章を終わりにします。
2016年6月11日 45期生最後の授業にて 45期卒業生の皆さんと