恩師探訪 肥後正久先生肥後正久先生の想い出 |
肥後正久先生は、新島学園の第3期生です。高校卒業後に青山学院大学・大学院で学び、1961年、新島学園に着任しました。その後1966年から68年までの2年間、米国のイエール大学へ留学しています。イエール大学は、ボストンとニューヨークの中間、コネチカット州にあります。ニューイングランド地方の、歴史と伝統のある私立の名門大学8校(ブラウン・コロンビア・コーネル・ダートマス・ハーバード・ペンシルベニア・プリンストン・イエールの各大学)の一つで、いわゆる「アイビー・リーグ」です。
私は、2013年冬の12月下旬に、米国短期留学の引率としてボストンを訪れました。
2学期の期末試験を終え、冬休みを少し前倒しして出発し、暮れには帰国するというプログラムでした。米国の古都ボストンで現地の語学学校に通い、クリスマスシーズンを過ごすというものでした。
ボストンは、ニューイングランド地方最大の都市です。米国最古の公園といわれる「ボストンコモン」や、そこから伸びる「フリーダムトレイル」など、米国の独立革命の地で知られています。そして新島学園に連なる我々にしてみれば、ここは「新島襄が学んだ街」であり、まさに「聖地」ともいうべき場所です。新島襄が暮らしていたというレンガ造りのアパートは、今でもほぼそのまま現存し、実際に使われてもいました。
新島襄研究の第一人者、同志社大学神学部の元教授である本井康博先生の著書、『ビーコンヒルの小径』(《新島襄を語る》シリーズ第8巻)を読み、さらにはガイドブックとして携えて現地に赴きました。
今回の留学では、アーモスト大学への見学研修も予定されていました。そのため私は、アーモスト大学に行く当日には、このネクタイを着けていこうと計画していました。それは、肥後先生はイエール大学留学時代に、きっとこの地を訪れているだろうと思っていたからです。
時代は遡り1988年、私は着任一年目の新人教師でした。ようやく2学期の授業が終了し、冬休み直前の頃でした。その年は、クリスマスページェントが行われる「学園クリスマス」の翌日が2学期の終業日でした。
当時、肥後先生は新島学園中学校・高等学校の教頭先生でした。学園クリスマスの日、肥後先生の胸元をふと見ると、このサンタクロースの柄のネクタイが目に入りました。最近でこそ、様々なキャラクターをデザインした、かわいらしいネクタイを目にすることは多くなりました。しかし当時は、こうした柄のネクタイはとても珍しいものでした。私は「教頭先生、とても素敵なネクタイですね。私もいつかそういうネクタイが似合うようになりたいです」と話しかけました。すると、ややはにかみながらも笑顔で、数年前に髙島屋で見つけた旨を話してくださいました。
翌日の終業式の朝、打ち合わせ前に肥後先生が、私のところにやって来ました。そしてにっこり微笑んで「進呈しますよ」と言って、さりげなく紙袋を手渡してくれました。その中を確認すると、なんと中にはあのネクタイが入っていました。私は、びっくりするやら嬉しいやらで、その日一日落ち着きませんでした。以来、このネクタイを家宝として扱い、学園クリスマスの日に、年に一度だけ着用することを決めました。もちろん、肥後先生の在任中には、年に一度の着用する姿を、ご披露させていただきました。
私は肥後先生の担任学年ではありませんでした。在学中に肥後先生の授業を受けたこともありませんでした。そのため、残念ながら授業やホームルームでの思い出話は全くありません。しかし、私は清心寮生でしたから、寮生活でいろいろとお世話になりました。
1980年代前半頃、当時の寮生は各学年に8~10人ほど、6学年で総勢50人くらいだったと思います。肥後先生は、寮生全員を何人かずつのグループに分けて、交代でご自宅に招いてくださいました。お手製のカレーをふるまう「カレーパーティー」を主催してくださっていたのです。当時の寮生の間では、インド人直伝のレシピだと噂されていました。私も寮生時代に一度、お招きに預かりました。
カレーのルーの色は、とてもすっきりした黄色で、スパイスの効いた逸品でありました。その頃に肥後先生が乗っていらした、ワンボックスカーで、寮からご自宅まで送り迎えをしていただいたことを、今でも良く覚えています。
肥後先生は1996年度から新島学園の校長先生になりました。県内でも少子化の話が話題となっていました。この年の春からは、清心寮生の募集も中止されました。そうした時代の変化や、校長という重責からでしょうか、笑顔の似合うダンディーなアイビーリーガーの顔から、笑顔は徐々に奪われていきました。そんな頃に私は、寮生時代にご馳走になった時のお礼を込めて、あの「インド人直伝レシピのカレーパーティーの話」を尋ねてみました。すると、あのレシピを教えてくれた人は、イエール大学に留学していたときのご学友であったことを知りました。また、本来のインド人直伝レシピは、トウガラシがたくさん入り、真っ赤で激辛なものだったので、寮生のおなかを満たすためにはアレンジが必要だったのだそうです。あの黄色いスパイスカレーに込められた、心遣いのある裏話を、以前のような素敵な笑顔で、懐かしそうに語ってくださいました。
肥後先生が召天されてから、もう何年も過ぎてしまいました。私が家宝としていたネクタイは、形見にもなってしまいました。私は、あのネクタイを30年ほどお預かりしておりました。実は今は、私のところにはありません。あのサンタクロースは、新島学園の後輩の、とある先生の胸で一年に一度輝いているはずです。その先生が誰なのかは、内緒にしておきます。次回の学園クリスマスの日に見つけられるかも知れませんね。
新島文化研究所 運営委員 星野伸樹(32期)