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恩師探訪 宮延雄先生の想い出

新島文化研究所 研究員 星野伸樹(32期)



逸話

 宮延雄先生の在職記録を、新島学園同窓会「根笹会」名簿2022年度版で確認をしました。すると、着任は開学時の1947年5月で、退職は1982年5月となっていました。宮先生は、群馬師範学校(現在の群馬大学共同教育学部)を卒業後に、富岡地域の公立学校の教師になることが決まっていました。しかし、その年(1947年)に開学するという新島学園の事を知り、自ら富岡の教職員組合に事情を説明して新島学園の教師となることを選んだのだと聞きました。

 新島学園開学の時は、さまざまな経歴を持つ先生方が集められていました。宮先生はその中で唯一、その年に大学を卒業する、新卒の先生だったのです。

 実はこうした宮先生の隠れた逸話をいくつも耳にします。富岡在住で、当時は自転車での通勤です。富岡から安中へは、通称「一丁八丁」と呼ばれる、なかなかの峠道を越えなければなりません。現在は舗装されて走りやすくなっているとはいえ、かなりの坂道です、当時はもちろん砂利道です。毎朝この峠道を、何人もの生徒を引率しての通勤通学風景は、もはや地域の風物のようでさえあったといいます。

 本来は数学の先生で、天文部の先生でもありました。天文観測のための合宿は、もっぱら先生のご自宅が会場だったそうです。ご実家が牛乳屋さんを営んでおられて、夜通し観測をした翌朝には、新鮮で美味しい牛乳を飲ませてもらったなどのお話しを、OBの方々からうかがったことがあります。しかし、宮先生といえば、多くの生徒にとってなじみがあるのは、なんといっても【怪談話】でしょう。授業に集中していない生徒がいたり、教室が騒がしくなったときなどに、知らぬ間に小声で始まります。いつの間にか教室は静まりかえり、全員が怪談話に集中しているのです。喉を痛めたことがあり、大きな声を出せないとのことでした。大声を出さずとも生徒の怠惰を諫め、話に引き込んでゆくそのテクニックに、男子校時代のバンカラな先輩方も、手なずけられてしまったのでしょう。

学校行事の様子


出会いと別れ

 筆者が新島学園高校に入学したのは1980年の4月でした。私の中学校からの入学は私一人だけでした。入学式の日から清心寮での生活は始まっていましたが、寮の同期生はみんな別のクラスで、自分のクラスに寮生は私一人だけでした。そんなわけで、学内のルールはもちろん、寮のルールも分からないまま、不安な中で高校生活は始まりました。

 始業式当日の事だったと思います。ある同級生らしき生徒が、廊下を歩く先生に何かちょっかいを出したのです、するとその直後に、廊下で生徒と先生の追いかけっこが始まりました。そこには、子どもっぽい生徒と一緒に、笑顔で校舎内を駆け回る年配の先生の姿がありました。こうした存在は、公立中学校出身の私にとっては新鮮な驚きでした。さっきまでの不安は消え、緊張感も一気に解けて無くなってしまいました。そして、その駆け回ってくれた先生こそが、私の担任の先生で、学年主任でもあった宮延雄先生だったのです。

 当時の事を思い出そうとすると、恥ずかしながら授業の想い出はあまり出てきません。しかし、クラス礼拝などで耳にした話は、今でも良く憶えています。

 中でも、クラス礼拝で何回かに分けて話してくださった、黒澤明監督の映画『生きる』の内容が印象深いです。ストーリーをご存じの方もおられると思いますが、少々説明します。『俳優の志村喬さん演じる主人公は、波風を立てずに生活し、定年を待つ市役所勤務の公務員です。ある時自分が癌に冒されている事を知ります。自らの人生はなんだったのかと悩み、その生きる意味を追求しようとします。そして市民公園の設立に奔走する』というものです。今思えば、こうした映画やドラマ、日常生活のちょっとした場面を切り取って、問題提起をしてくださったのでしょう。そして、【生徒自らが、その中にキリスト教的価値観を見いだし、人生について考えること】をさせようとしていたのではないかと思います。

 翌年、先生は体調を崩し、療養生活に入りました。はじめに在職記録のことを書きましたが、実は(1982年5月)は宮先生がお亡くなりになった月なのです。その時、私たちは高校三年生でした。告別式は甘楽教会で行われ、私も多くの同級生と一緒に参列しました。私にとって初めてのキリスト教式の告別式参加でした。


想い出の中の恩師

 それから数年後、私たちも社会人となっていました。ある時、友人(同期生)とひょんなことから宮先生の話題になりました。その友人は、医療系の大学を卒業し、ある大学の医科学研究所に勤務していました。何の気なしに、医療系への進学をめざした理由を訪ねたところ、私はその理由に驚かされました。

 友人は次のように語りました、「私たちが高校二年の途中で、宮先生は療養生活に入ったよね。お見舞いに行ったところ、すごく辛そうなのが印象的だった。しかし、宮先生はお見舞いに来てくれたことをすごくねぎらってくれてね。そして、帰り際に私の手をギュッと握り『私は生きたい』とつぶやいた事が忘れられない。その時に、絶対に医療系をめざそうと決心したんだ…。」

 そういえば、私の同期生には、医師、歯科医師、薬剤師など医療関係従事者が多いです。正式に数えたわけではありませんが、同世代の新島学園同窓生の職業と比較してみると、確かに多いと感じます。その友人と、宮先生の存在が、少なからず同期生の進路選択に影響したのは間違いないと結論づけました。そして、おだやかでありながらも、生徒と追いかけっこをしてくれる茶目っ気を忘れない恩師の姿に想いを馳せたのでした。

 高校を卒業して40年以上が過ぎました。宮先生が最後に担任を持った私たちの学年も、宮先生が天に召された年齢を越える頃になりました。私は、以前あまり見ることのなかった、古い日本映画を見るようになり、その面白さを理解できるようになりました。これは私の勝手な想像ですが、宮先生は俳優志村喬さんの、控えめにふるまいながらも存在感のある演技が、とりわけ好きだったのだろうと思います。志村喬さんは、黒澤明監督作品以外の映画にも多く出演しています。私は、志村さんの出ているシーンを目にすると、必ず宮先生のことを思い出します。そして、どうしても人物像とダブらせて見ずにはおれないのです。


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