根笹会からのお知らせ同窓会報「根笹」イベントスケジュール同窓会について地区会情報母校情報
トップページ » 同窓会報「根笹」 » 新島八重子夫人と安中ご来訪について

新島八重子夫人と安中ご来訪について

二期生 淡路博和

▼過日、平成二十五年度NHK大河ドラマに、新島襄先生の奥方である八重子夫人を主人公とする「八重の桜」が決まったとのニュースが流れると、俄然安中でも八重子夫人のことが話題になってまいりました。そこへ同窓会「根笹」編集部からの依頼もあり、良い機会でもあるので、改めて八重子夫人のこと、ことに安中との関係などを調べてみました。

  まずお名前は、八重なのか、八重子なのかということですが、長年江戸期のことを調べている観点から言えば、江戸期や明治初期には一般的には「子」は付けておりません。明治時代になっても、なかなか「子」は付けませんでした。ただ、私たち新島学園に連なる者としては、新島先生の奥方としての彼女ですから、ここでは八重子夫人と呼ぶことにいたします。

▼八重子夫人は、弘化二年(1845)11月3日(陽暦12月1日)会津藩の山本家に、父山本権八・母さくの三女として生まれました。長兄は山本覚馬といって、後に新島先生と同志社を結成いたします。長女と次女及び次兄は早世し、弟に三郎がおります。山本家は武田信玄の軍師山本勘助の末裔といわれ、家格は藩中の黒紐席と称する上士の地位にあり、代々会津藩の砲術師範を勤めておりました。
兄覚馬の影響もあって八重子夫人は蘭学と砲術を学び、「13歳 の時に四斗俵(約60キロの米俵)を4回も肩に持ち上げた」そうです。19歳の頃に、山本家に寄宿していた但馬国(兵庫県) 出石藩の洋学者川崎尚之助と結婚しました。


落城後の会津若松城(鶴ヶ城)天守閣

▼ところが慶応4年(1868)(明治元年)、会津藩は歴史的大事件に遭遇いたします。皆様ご存知の鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争です。この戦争は薩長を中心とする新政府側の倒幕軍と、幕府に組みする旧幕府軍との戦いです。会津藩では藩主松平容保が、かつて京都守護職という幕府の要職にあった関係から、佐幕派の奥羽越列藩同盟の中心となり、そのため同年8月20日(陰暦)から、板垣退助率いる倒幕軍との間に悽愴な攻防戦が展開されました。

  この時、八重子夫人は22歳。断髪して、しかも弟三郎の形見の軍服で男装、大小の刀を腰に帯び、時には七連発のスペンサー銃を持って大砲隊の指揮をとり、敵軍を悩ませたとのことです。まさに女丈夫、男まさりの勇姿が眼に浮かびますね。後に会津のジャンヌ・ダルクと言われたのも宜うべなるかな、といったところです。

 主力隊は城外で戦ったため、城内には婦女子・老兵・少年兵しか残っておらず、新政府軍の攻撃に戦死者続出、遂に落城、降伏いたしました。父は戦死、夫尚之助は藩籍を持たぬため城外に脱出し、離婚いたしました。

  城を退去する夜、八重子夫人は「戊辰長月(旧暦9月)20日あまり3日の夜、さしのぼる月のいとさやけなるを見て」、つまり9月23日の夜、三の丸の雑物庫の壁に簪(かんざし)で刻み付けたのが、左の短歌です。

八重子
明日の夜は何国の誰かながむらん  なれし御城に残す月かげ


 戊辰戦争が峠を越した11月、新政府は朝敵藩の処分を行い、その対象は23藩にも及んだそうです。会津藩23万石も没収されましたが、明治2年(1869)家名再興が許され、下北半島に斗南藩三万石(青森県むつ市)の領地が与えられ、多くの旧藩士とその家族17,000人程が移住し、風雪厳しい土地で辛苦の生活を送ることになったのです。


兄山本覚馬氏

▼明治4年(1871)2月、戦死したと思われていた兄覚馬が京都府顧問をしているという知らせを聞いて、母さく・姪みねの三人で京都に移りました。
八重子夫人の新しい生活への門出です。兄覚馬は薩摩藩に捕らえられ、眼疾を患い失明致しましたが、彼の識見の高さから厚遇され、のちには京都府議会議長にもなった人物です。

 八重子夫人は兄覚馬から英語を学び、洋髪洋装の女性に生まれ変わったと言われています。

 明治5年(1872)兄の紹介で我国最初の女学校「女紅場」(現京都府立鴨沂高等学校)の舎監兼教師として働き、そこで茶道教師の裏千家13代目千宗室( 円能斎)の母と知り合って茶道に親しみ、また英語を媒介として聖書の研究を始め、キリスト教に関心を持つようになりました。

▼明治7年(1874)に帰国した新島先生が、京都に学校を建てようと京都府顧問の山本覚馬氏に近づき、八重子夫人は新島先生が一時逗留していた旅館「目貫屋(めぬきや)」に兄の紹介で聖書の勉強に通い始め、お互いに惹かれるようになったようです。かつて父民治さん宛の手紙の中で、「日本の女性の如くなき女子」を妻に迎えたいと述べていた新島先生ですので、自由闊達にものを言う八重子さんに注目したのでしょう。


結婚後間もない頃の新島ご夫妻

  こうして八重子夫人は明治9年(1876) 1月2日、デヴィス邸にて同氏から洗礼を受け、翌日同氏の司式で結婚式を挙げました。京都で最初の洗礼、キリスト教式の結婚式でありました。新島先生32歳、八重子夫人30歳。正しいと思うことは自らこだわりなく実行するという、八重子夫人の面目躍如たるものがあります。

▼山本覚馬・デヴィス氏等の協力で、明治8年(1875)11月、同志社英学校が開校されました。この時の入学生はたった8名でした。ところが私たちの新島学園が昭和22(1947)年5月に開校した時の最初の入学生は、一期生・二期生合わせて82名でした。当時の学園の先生方が「新島先生が学校を開いた時の入学生が8名、 それに比べ、その10倍の生徒が 与えられた。感謝するとともに責任を感じます」と語っておられたのを私は覚えています。

▼明治10年(1877)に同志 社分校女紅場(のちの同志社女学校)が開校すると八重子夫人は礼法を教え、母さくさんは舎監となり、山本家あげて新島先生を支えました。八重子夫人は洋装にブーツを履き、夫と並んで人力車に乗り、花飾りのある帽子を被り、和服に靴を履く…
京すずめには「悪妻」「烈婦」として嫌悪の目で見られましたが、彼女はどこ吹く風と気にもとめなかったようです。

▼明治23(1890)年1月23日、神奈川県大磯の旅館「百足屋(むかでや)」にて、新島先生は47歳の生涯を閉じました。
結婚生活14年。同志社大学建設のため全国を行脚しつつ療養する夫の身体を気づかい、夫に付き添って会津・鎌倉・伊香保・神戸・北海道等へと出向かれました。それは結婚生活の三分の一にも達したとのことです。

 左は八重子夫人が「夫のみまかりける年の春」に詠んだ歌です。

大磯の岩にくだくる波の音の  まくらにひびく夜半ぞかなしき


ひとりねの寝覚の床は春雨の  おときくさへもさびしかりける


心あらば立ちなかくしそ春霞
み墓の山の松のむらたち



明治21年11月撮影の八重子夫人

▼新島先生なきあと、明治24(1891)年には日本赤十字社の正社員となり日赤篤志婦人会に加入。ことに日清・日露戦争の時には、篤志看護婦として広島や大阪で負傷兵の救護活動に従事し、皇族以外の女性としては初めての叙勲を受け、昭和3年(1928)昭和天皇即位の大礼に際しては銀杯を授与されました。

 また夫の遺産の全てを同志社に寄附され、円能斎直門の弟子として「新島宗竹」の名を授かり、茶道裏千家の普及に努めておりました。私邸でカルタ会を開き、多くの生徒たちから「新島のおばあ様」と親しまれていたとのことです。

▼ところが昭和六年の後半から度々激しい腹痛を訴え、医師の診察を受けておりました。それでも昭和7年(1932)元旦の自詠では、

幸多き年来にけりと諸人に  あかつき告ぐるくだかけの声

また同年の米寿祝賀の時にも、

あしたづのなくをききつつう  れしくも   米てふ文字の年を迎へぬ


と詠い、幾分小康を見せたこともありましたが、昭和7年(1932)6月13日、茶筵の後に病状激変、6月14日午後7時40分、京都寺町の新島邸で急性胆嚢炎のため永眠されました。同月17日、同志社葬により京都若王寺の新島家墓域に葬られ、八十六歳七か月の天寿を全うされたのです。

 同年7月15日発行の「同志社校友同窓会報」敬弔号に、安中出身の詩人湯浅吉郎氏(号半月)が「新島刀自(とじ)の永眠を悲しみて」

五月雨はいかに降るとも  小やみなき  我涙にはおよばざるらん


と、永訣の悲しみを詠っております。

1  2


新島同窓会報「根笹」

新島学園中学校・高等学校 新島学園短期大学