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トップページ » 同窓会報「根笹」 » 新島八重子夫人と安中ご来訪について

▼さて、次に新島八重子夫人の安中ご来訪について記してみます。今後の研究によっては補充訂正されるかも知れませんが、私のささやかな調査では、八重子夫人は安中に4回ご来訪なされております。
 第一回目 明治15年7月
 第二回目 明治21年8月
 第三回目 明治43年1月
 第四回目 大正10年8月

▼ 一回目の安中ご来訪 御年 
36歳


明治38年 篤志看護婦会正装の
八重子夫人

新島襄全集8「年譜編」より、その概略を引用してみますと、「明治15(1882)年7月3日、新島先生と徳富猪一郎・湯浅吉郎・他3名は京都より会津へ向けての旅に発ち、中山道を通って7月11日夜8時安中に到着、八重夫人に迎えられて湯浅治郎宅に泊まり、徳富氏らは伝馬町の山田屋旅館に泊まった。八重夫人は女性二人を伴い神戸より海路、横浜を経て安中に先着していた。新島先生たちは安中・原市・松井田で演説会を開き、その間をみて親戚にあたる植栗家や鷺宮の佐藤種五郎家を訪ねた。(佐藤家には新島先生の姉真規が嫁いでいた)。一行は7月18日安中を発ち、太田・栃木・日光・白河を経て7月27日会津若松に到着、長旅を経て9月15日に京都に帰られた」とのことであります。この時、八重子夫人は初めて安中に来られ、そして懐かしい故郷会津へと旅をしたのであります。どんな感慨を抱いたことでありましょうか。

▼ 第二回目の安中ご来訪御年四十二歳

同じく新島襄全集8「年譜編」より、その概略を引用してみますと、「明治21(1888)年4月16日、京都を出発した新島先生は神戸・横浜を経て鎌倉到着。六月八日鎌倉に来た八重子さんと落合い、三日間ほど静養する。東京に戻り、7月2日八重子夫人が秘かに夫の病状を医師に聞くと、『心臓病は全治を期すことは出来ない』とのこと」。
八重子夫人の心中いかばかりであったろうか。それでも新島先生は実に多くの名士と会見し、沢山の手紙を認めています。それは本当に目まぐるしいほどであります。

  「静養のため7月27日、伊香保の木暮武太夫方に到着、8月6日には千明三郎氏の別荘に移る。京都に戻っていた八重子夫人が8月16日に伊香保に来る」。この間も新島先生は岩崎弥之助氏(岩崎弥太郎の弟)などの名士や地元の信者たちと会い、勝海舟・陸奥宗光・内村鑑三など諸氏との手紙の交信を行っています。

 「9月15日、二人は伊香保から前橋へ。9月16日、八重子夫人は安中へ。そして翌日は新島家の養子新島公義さんの実家(松井田の国衙)へと出向きました」。養子公義さんの結納の件であったようです。

  その後の動静は記してありませんが、9月25日には新島先生は東京に帰っていますので、八重子夫人も同行したと思われます。当時の新島先生は、組合・一致両教会の合同問題について心労の多い時期でありました。


明治43年1月の記念写真

▼第三回目の安中ご来訪御年64歳

明治43年(1910)1月に安中教会で、新島襄先生永眠20周年紀年会が催され、その時の記念写真(→)が新島学園に遺されています。旧安中教会堂の玄関前で撮った写真で、裏に「安中町本多写真館」の印が押されています。
 写真は向かって右から、山室軍平(やまむろぐんぺい)氏、八重子夫人、ジェローム・デヴィス博士、小崎弘道(こざきひろみち)氏の皆様で、山室氏は日本救世軍の創立者として有名。デヴィス博士は新島先生が同志社結成時の同志のひとりで、八重子夫人結婚式の司式者でした。小崎氏は熊本バンド出身で、新島先生亡きあと先生を継いで第二代同志社々長となり、のちには東京霊南坂教会牧師として活躍されました。

 写真のような穏やかなお姿を拝見しますと、会津時代の勇壮な女丈夫の面影や、洋装のハイカラなイメージとはほど遠く、茶道を楽しむ穏やかな八重子夫人でありますが、押しも押されもしない凛とした風格が漂っておりますね。

  明治という時代の中でしたが、近代女性の先駆者として、もっと注目されてもいいように思います。NHKのドラマと共に彼女の真骨頂が多くの人の共感を呼ぶのではないかと期待してい ます。

▼第四回目の安中ご来訪御年75歳

  安中教会柏木義円牧師編纂の「上毛教界月報」274号(大正10年(1921)9月15日発行)の中に、「新島八重子刀自(とじ)の御來安」の記事があり、次のように記されています。
「新島先生の奥様は山形より御帰途、(八月)廿八日午前十時廿八分着にて御來安、湯浅家の客となられ、礼拝に御参列、次で別館にて歓迎会を催ふし、その歓迎会の席上、八重子さんは、かつて新島先生が函館から脱出された時の話をされた。ニコライ師との会見のくだりでは、『あの時にニコライ師が新島に聖書を教えてくださっていたら、新島は米国には行かずにロシアに行ったであろう。そうすれば同志社も起こらなかったであろう 実に妙なる御摂理なりし』と八重子夫人は語り、さらに続けて、「脱国を助けてくれたポーター商会の福士宇之吉氏は、夫を沖合に停泊中のベルリン号まで届けるため、三日間も小舟の漕ぎ方を練習していたこと。のちに夫婦して函館に行った時に、新島が指さして『ここは雪駄を脱 いだところ』『ここから小舟に乗った』などと話してくれた。
またポーターという古い名札の下がった家を見付け、今は零落したそこの主人に面会し、襄が『私は、貴商会の福士氏のお陰で米国に航海できて・・・』と話すと、その主人は涙を流して『我が社は当時函館第一流の雑貨商であったが、店員の不正によって破産してしまった。君が温情ある訪問をしてくれ、君の親切がうれしい』と喜ばれた。襄は若干のお金を差し上げてお別れした」と八重子夫人は語っています。

▼新島先生の愛弟子柏木義円牧師と安中教会の皆様を前に、75歳の八重子夫人は夫を追憶し、楽しそうに語られたのです。これが安中ご訪問の最後になったのではないでしょうか。

  八重子夫人と新島先生・・・
お互いに心を通わせ合った仲睦まじいご夫妻が、函館の浜辺を歩くお姿が目に見えるようですね。

(2011・8・30記)


掲載写真は一部を除き、同志社刊「新島襄その時代と生涯」1994年版より転写させていただきました。参考文献は主に、昭和7年(1932)2月の「同志社校友同窓会報」第61号「新島八重子刀自米寿記念号」と、昭和7年7月の同会報第66号「敬弔」号です。なお文中の年齢は満年齢と致しました。

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