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新四会(新島学園4期生の会)
「友はわが師 新四会だより~総集編」
刊行のご紹介

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4.新島学園の誕生 江川 榮 先生

 昔は年80といえば、余程の年寄りと思われた。が、今自分がそうなってみると、案外平気。私はこの3月で満80歳。それでいて、これからもいろいろ知りたい、学びたいで、胸いっぱい。

 ここは毎朝、門前をバスや自転車で、学園の生徒が通る。見るからに可愛いい。ほんとに可愛い。「新島学園は柄のよい学校」と、私は誰彼なしに吹聴する。心の中で、「これを建てた事は、よかった、よかった‼」と、ひとりごとを言い、また友達への手紙に書き添える。余程以前の事、上州各教会の総合青年大会が、安中教会で開かれた。その折、この安中に、新島先生を記念する中学を造ろうとの話が出た。早速14円の献金があり、それが今も銀行に預けてあるとの事。

 私が安中に来て数年後のある日、牧師館で有田屋社長で今の市長湯浅正次さんと話し合った。私は言った、「一つこの教会に図書館を作って町の青少年に本を読ませ、時には名士を呼んできて、町の人達に講演をきかせてはどうだろう」と。その話はそのままとなった。

 終戦後、湯浅さんがまたやって来て、「先生のおっしゃる図書館もよいが、一歩進めて学校にしてはどうだろうか」とのこと。「いやあ、それに越したことはない! そうだ、そうだ‼」と私は大賛成。この話から、以前立消えになった新島先生を記念する学校設立の幻がよみがえった。場所としてはじめ、鷺の宮辺を考えたが駄目、碓氷川畔、久芳橋の向う、もとの軍需工場跡と決まった。校名は勿論「新島中学」、開校は終戦の翌々年、昭和22年(1947)の春、男子校(共学はずっとあと)だから5月5日の端午の節句がよいときめ、官庁への手続き、組織、職員の構成、校舎の整備など、万端の用意。が、はたしてどれ程生徒が来るだろうか、と内々気にした。ところが、いよいよ蓋をあけてみるとなんと80名!そもそも、新島先生が明治8年(1975)京都に同志社を開いたときの生徒の10倍ではないか! 私はこおどりした。というのも、先生のお名前「新島」が物言ったと、今も私は思っている。

 1977(昭和52)年10月31日発行「新四会だより」第8号より


妙義遠足(中学3年生) -1951(昭和26)年5月17日

 

5.“学園の今昔” 今井悦郎

 学園に入学してからもう20年になります。当時の学園は現在一番古くなった、あの山小屋風な校舎が一棟、ベランダに小さな鐘があって、それが始業終業を知らせる鐘でした。そのほかに現在の立派な寮の出来た所に2教室、そのほかに講堂が一つ、それが学園の全部でした。我々4期生の出発はまた、学園の出発でもあったようです。

 我々新入生は当時としては新しく近代的な校舎に入る事が出来ずに、窓ガラスは破れ、天井も破れている講堂(礼拝堂)の前の2教室にA、B両クラスに分かれて入りました。

  私達の唯一の願いは、早く新校舎に入りたい、ただそれだけだったかもしれません。

 6月1、2日両日久しぶりに学園に行きました。学園は美しくなりました。新しく理科教室と体育館が出来ました。それにもう一つ画期的な事は男女共学になった事です。父親として喜び、同窓生として遅きをうらむ心境です。

 1968(昭和43)年7月28日発行「新四会だより」創刊号より

 

6.“交友” ―水上でのクラス会を終えて― 吉田 悟

 つい先日の水上温泉での学園創立30周年記念の同期会(新四会)では、多数の恩師や旧友と会うことができ、非常に楽しかった。それにしても、わずか1年半足らずの新島生活であったにもかかわらず、多くの友人を得、その後も現在にいたるまで交友を持ち続けられていることは、非常に幸せと常々思っている。

 昔から言われるように、その人の人生の豊かさは多くの友人を持つことにあり、この意味でも、短くはあったが充実した新島時代の生活は、自分の人生にとっても極めて意義あるものであったと考えている。

 医学部を卒業して以来はや15年以上たち、医者というある意味では特殊社会のなかで生活していると、「医」の関係をのぞいては比較的共通の話題も少なく、平面的なつき合いに終わり、なかなかいわゆる裸のつき合いは出来ないものであるが、その意味でも、新島時代の友人とは家族ぐるみのつき合いをさせてもらい、周囲の同僚からも何かとうらやましがられている程である。そのうえ、実利的にみても、多様の職業の人間と親しいということは何かと便利であり、あれはあの人、これはこの友といった具合にお互い相談にのったり、面倒をみ合ったり、強いて言えばもう少し住居が近ければなおさら便利なのにと、贅沢にも思ってみたりしている。

 友人関係も永い期間には、親しかった友人でも疎遠になりがちなものであるが、幸せなことに、自分の場合、新島から転校した時期よりも、今ではかえってつき合いの範囲は拡がり、親密さも増しているほどである。

 芸者を前にして讃美歌を歌ったのは、おそらく後にも先にもないことであろうが、キリスト教をバックボーンにする新島精神のもつ人間的温かみを、恩師との交流、記念行事のなかに強く感じるとともに、その精神が自分との交友関係に深く生きていることを同時に強く感じさせられるものである。

 1977(昭和52)年10月31日発行、「新四会だより」第8号から

 

7.新島学園の思い出 上原常宏

 私が学んだ学校(小、中、高、大)の中で最も思い出の深い学校は何といっても新島学園です。新島学園にお世話になったのはたった3年間ですが、この間に学んだ数々の教えが私の人生に少なからぬ影響を与えた様です。

(1)キリスト教の基礎を学んだこと。

 新島学園に入学していなかったら、多分聖書も読まなかったであろうし、従ってキリスト教に関する知識、理解度も極めて貧弱なものであったのであろう事は想像に難くありません。

 社会人になって色々な国の方々と接する場合においても、キリスト教のことが私の頭の片隅にあるためか、比較的平常心で相手と応対することが出来たことも事実です。

 柏木先生、江川先生他諸先生方に常々感謝の気持ちを忘れてはいません。

 新島学園の(或いはキリスト教の)精神は私の心に脈々と生き続け私の人間形成に大きく関わっている事も否めない事実です。

(2) 新島学園の先生方の生徒への愛情について

 今でも先生方の顔や言動が私の心のカメラに確りと残っております。これは諸先生方の生徒に対する深い愛情表現の度合によるものではないでしょうか。

 「思いやりの精神」、「感謝の気持ちを忘れない」、「慈愛の精神」等は新島学園に培われたものと思います。

(3)仲間との出会い

 新島学園時代の素晴らしい仲間との出会いと交遊も忘れ難く私の大切な宝物です。

(4)石田愛子先生の思い出

 あの頃の先生は髪をアップにして、色白ですが顔に少しばかり蕎麦滓(失礼かな?)がございましたがとても美しい方でしたね。

 ある時私の席を通過するとき私の制服の肩の上に“ふけ”が落ちていたのを発見し、その“フケ”をご自分の手で落としながら(朧げな記憶?)“ちゃんと頭を洗うのですよ!”とおっしゃられたことを懐かしく思い出します。

 卒業後、石田先生とお会いする機会は一度もありませんでしたが、先生との文通は先生が他界されるまで続けました。ご存命中に茅ヶ崎の「太陽の郷」にお伺いする積もりでおりましたが、それも果たせず悔やまれます。

 私が商社に入社した時、また海外勤務が決まった時等、度々激励のお手紙を頂戴し感動したことを今でも懐かしく思い出し、ホノボノとした気持ちになります。

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新島同窓会報「根笹」

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