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新四会(新島学園4期生の会)
「友はわが師 新四会だより~総集編」
刊行のご紹介

【3】

8.自分の人生をふりかえって 佐藤豊明

 75歳を過ぎた今、自分の人生をふりかえってみて、新島学園を卒業したこと、いや、新島学園を卒業させてもらったことを心から感謝しています。私にとってすべてはそこから始まりました。

 太平洋戦争の末期、私は東京の赤羽に住んでいました。街に焼夷弾が落とされ始めて危険になってきたので、小学校低学年であった私は母や妹たちと一緒に群馬県の坂本の父の実家に疎開させられました。疎開っ子のほとんどがそうであったように、私も地元の悪童に徹底的にいじめられました。

 そのまま、新制中学(戦後に出来た新制度の公立中学)に進学したら、いじけた人間になってしまうだろうと心配した父母が、貧しい家計をやりくりして(父はただの国鉄職員、いわゆる「ぽっぽや」でした)私を新島学園に出してくれました。キリスト教に全く関わっていなかった父母がよくぞ出してくれたと今でも言葉に尽くせないほど感謝しています。

 新島学園に入って、もういじめられる心配のない別世界に居ることを知りました。水を得た魚のように喜々として通いました。徒歩と汽車で片道1時間以上かかりましたが、全く苦にならないどころか楽しくて仕方がありませんでした。

 坂本の清流(碓氷川の支流)にはヤマメやイワナが生息していましたが、下流の碓氷川にはハヤやギュウタという今まで知らなかった魚が棲んでいて、学校帰りにそれを捕まえて空になった弁当箱に入れて持ち帰ったりしました。

 そんな楽しい中学時代が過ぎてやがて高校に進学すると、さすがに多少は大人になったのでしょう。宗教、即ちキリスト教に関心を持ち、年に一度の伝道週間に東京から来る有名な牧師の説教に感動し、高2の夏に受洗しました。湯浅、吉田(照悟)、寺田、高林らと宗教部を立ち上げ、ひなびた霧積温泉や軽井沢へ行って、聖書を読み、讃美歌を歌い、祈りました。今から思うと、何をやっていたやら、冷や汗が出ます。けれどもこの頃が、私の人生で最も真面目な時期だったようにも思います。湯浅、吉田(照悟)とは、特別親しくなりました。

 さて、しばらくご無沙汰していた教会に15年ほど前からでしょうか、夫婦で時々通っています。プロテスタントからカトリックに改宗しました。やりたい放題の事をやって最期に懺悔(告解)をして天国に行くパターンを、カトリックでは俗に「天国泥棒」と言います。私もその泥棒の一味と言われても仕方がありません。けれども死後の世界は信じていますが、お花が咲き乱れて、羽の生えた天使が飛び交うような所を想像してはいません。人間には想像できない、全く次元の違う世界だと信じています。そうした人生観に導いてくれたのが、新島学園で出逢った良き師、良き友、良き書(聖書)です。そしてそれが晩年の今も生活の支えになっています。新四会からも寺田仁計という聖職者が出ました。私たちに出来なかったことを彼がやってくれました。寺田に大きな拍手を贈ります。

 

9.私の近況とシルクロードの旅 湯浅太郎

 私は別に何を考えるのでもなく、朝5時に起き、夜は10時に床につき、規則正しい生活をしていると勝手に思い、健康に気をつけ、息子や関係者の様子を温かく見守って行きたいと考えておりますが、一方、車にばかり乗っていて足腰は益々弱くなっているにも拘わらず、自分では若い時の体力を維持し続けていると勝手に思い込んでおります。

 中学の頃、安中教会に金蘭という青年会があり、そこで何回か、アラビアン・ナイトの話を聞かされ、キリスト教の話とは違った魔法や美女や夢のような世界の話に想像が果てしなく広がったことがあります。この経験が今の私に影響を与え続けて居るのではないかと思う。

 イスラムの国、トルコに行った際、中学の時、聞いた例の話が俄然、頭をもたげ、イスラムの地をもう少し探訪したいという意欲がわいてきた。

 そして、此処トルコが中央アジア、長安、奈良へと続くシルクロードの終着地であることを知り、この古の道に思いを馳せ、今度はこちら側のシルクロードの出発地を見てやろうと思いついた。

 そして、何の準備もなく、足の衰えも顧みず、西安以西の旅に出てしまったのである。

 現在のシルクロードは月の砂漠の歌で歌われる昔のシルクロードは影を潜め、砂漠には高速道路が伸び、その両脇には風力発電の風車が林立し、石油掘削や製鉄の工場があったり様変わりである。

 土地の広さや其処に眠る資源を思うとき、うらやましいような、また、圧倒されるような感じを抱かせられるのは私ばかりでは無いと思う。

 この広い熱砂地帯を三蔵法師がインドまで往復したとは全くの驚きである。私はこの地区を短期間で回ったため、ホテルに着くのが、朝2時であったり、夜行列車の移動では朝4時に降ろされたり、見学する城壁や関所等が皆巨大で、熱い乾いた大地の上を登ったり、下ったり、足の弱い私としてはハアハア言いながらエネルギー確保のため、肺の奥まで酸素を入れなくてはならず、行動中、中国の雑菌を全て吸い込んでしまった。お陰で気管支炎になってしまい、帰国後、暫く苦しんでいた。

 今回の最大の目的であった敦煌は砂漠の美術館と云われるだけあってさすがに素晴らしく、その石窟は全面が壁画で覆われ、当時の絵の具も白以外は殆ど劣化せず残り、効果を発揮している。当時、金と同じと言われたラピスラズリの青が薄暗い壁画から浮かび上がり、何ともいえぬ崇高な雰囲気を醸し出している。信仰の力はすさまじいものだとあらためて感じ入った次第である。今回は体力の限界を試すような旅であったが、敦煌を体験できたことは望外の幸せであった。

 

10.一枚の瓦 横山昇一

 振り返ってみれば既に20年が経過している。

 当時私が専務理事を務めていた「信用金庫」は、組織全体を見直すトータルCI活動をすることに致しました。

 トータルCIといっても一体何にどうやって取り組んだら良いのか分からない。考えあぐねた末に思い出したコンサルタント会社のリーフレットに瓦屋根が連なったヨーロッパの古い町並みが描かれ、そして『小さな瓦が集まって屋根をつくり家になり街をつくっている。一枚の瓦もおろそかにできないように一人をおろそかにしない。それが我が社の願いです』という言葉が小さく添えられておりました。その言葉は強く私の心を捉え、早速にこの会社とコンサルタント契約を結ぶことといたしました。

 20年を経た今、あの時「一枚の瓦もおろそかにしない」という言葉に共鳴をした私の心の原点は新島学園中学校で受けた教育、江川先生、柏木先生、山崎先生そして名を挙げだしたら限りのない大勢の先生たちから与えられた「一人ひとりの生徒を大切にする」という思いであったのだということをしみじみと感じております。

 

11.新島学園への私の思い 吉田照悟

 1949(昭和24)年、新島学園中学に4期生として入学した。

 毎日朝の礼拝から始まり、そこで初めて聖書と讃美歌を手にした中学生…75歳になった今でも昨日のことのように一つ一つが楽しく蘇ってくる。一クラス55名の二クラスの中学一年生。江川榮先生(校長事務取扱、安中教会牧師)の宗教の授業で一学期は「新島襄伝」を学んだ。“新島先生は…”で始まる授業で新島先生のこと・キリスト教のこと・新島学園精神のことを学んだ。

 そして冨岡正男先生作詞作曲の“晴れわたる青空~緑の丘清き流れ、友はわが師・師はわが友~”そのままに学園生活を謳歌した。熱い思いを持ち、一人一人の生徒を大切にしてくれる先生に学ぶ幸せを誰はばからずに楽しんだ。

 4期生同窓会は、高校まで6年間学んだ者、高校は他の学校へ行った者。そして、高校から入学した者。それら皆一緒に「新四会」(新島学園四期生会)として思いを一つにし、今までに20回程行っている。高校は他校へ行った者も多数出席し、新島学園で学んだことをエピソードと共に生き生きと語り“人生の価値観・大切なことを学んだ”と感謝している。

 中学・高校の時代は人間形成にとって、とても大切な時だと言われるが、中でも中学生時代はとても大切で、“人生の始めの時”だとつくづく思う。

 今、76歳になろうとしているが、キリスト教精神に基づく人格教育を土台にした教育環境の中で“良き師・良き友・良き書(聖書)”に出会ったのである。生きゆくうえの価値観は、新島学園で学んだ。キリスト教精神のこと、新島襄先生のこと、先生方の生き方と情熱に感化を受け啓発され学園生活の中で培われたことを心からありがたく思う。人生の終わりは始めにかかっている感を深くしている。


新四会「七十五歳を語る会」(同窓会)
於:磯部温泉 林家旅館
2012(平成24)年3月18日

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新島同窓会報「根笹」

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