二期生 淡路博和
【2】
◎ここで地元安中の古記録紹介します。
安中藩士族猪狩氏が遺した「掌中日記」の中に、新島七五三太帰国後の様子が記されていますので写真で紹介してみます。
左の4枚の記事は、いずれも明治7年12月の記事です。
同 十一日 晴
一 新嶌先生当安中学校ニ於テ午前第十時ヨリ洋行始末合衆国ノ景呪(況)并耶蘇宗門ノ大意ヲ被解候事
同 十六日 晴
一 新嶌先生当安中学校ニ於テ午後第二時ヨリ耶蘇宗門の大意ヲ被解候之事
一 右聴聞トシテ高崎支廳官員菅谷清允直村種徳外六名参校致シ候事但外聴聞の者大略三百名程
一 耶蘇宗門書籍料
弐百疋ヲ封ジ 新嶌先生
方へ持参いたし候事
12月22日晴 の記事
一 新嶌先生 払暁 攝州兵
庫表へ出立之事
12月24日晴 の記事
3・28 東京より高崎まで馬車、それより人力車を乗り継いで、午後7時に安中に着く。この夜、ただちに便覧舎で集会を開く。
註 便覧舎は明治5年湯浅治郎氏創設の私設図書館で3千冊余の図書を有し無料で閲覧させ、国内最古の私設図書館といわれいるが、明治20年に焼失。現有田屋湯浅家の前、安中市指定史跡。
3・29 午後 林家(磯部温泉)でキリスト教の話をする。聴衆70~80人。夜 受洗試問会を開く。
3・30 前日と同様な行事を行う。
3・31 午前 祈祷集会、午後 林家(前述)にて新島と海老名が説教。夜7時半より公会設立の式を行う。30名(女性14名・男性16名)に洗礼を授ける。
註 「安中基督教會録事」には「3月30日夜、便覧舎ニ於テ建会ノ式ヲ行フ、依テ之ヲ安中基督教会ト称ス」と記してあるが、3・31は日曜日である。なお海老名氏を仮牧師と定めた。
4・1 後閑村に行き副戸長や親類中の者に面会する。午後5時 菅沼家・新島公義の実家植栗家を訪問し公義の身分について相談、さらに学区取締に面会して公義のことにつき周旋を依頼する。民治に手紙を書く。
4・2 上原春朔の家を訪ね、それより更に一里程山に入って化石の標本を採取する。午後 安中を発ち高崎へ向かう。途中志村家を訪う。高崎では越後屋に泊まる。
4・3 高崎を朝4時出発して午後3時 東京着
[安中滞在7日間]
2・7 午前3時 雪降り積もり全身凍るごとき寒気の中を東京より安中に向かう。夕方安中到着、疲労していたが、強いて多くの来客に接する。
早朝より続々来客、夕刻まで暇なし。夜2時間ほど祈祷会を開く。
2・9 日曜日 午前集会を開き午後説教、かつ晩餐会を司る。この日田中貞吉が受洗、夜に入って祈祷会を開く、甚だ熱心、活気に満ちた集会で2時間を費やす。その後、12時過ぎまで便覧舎於いて千木良昌庵ら数名の信者と共に歓談する。
2・10 深夜0時半 馬車で安中を出発、午後1時半 東京着
[安中滞在4日間]