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新島襄先生の安中来訪について

二期生 淡路博和

【3】

第5回来訪

明治12年(1879)36歳

12・3 新島は海老名弾正の按手礼式に出席のため安中に到着する。
12・6 午後7時より海老名の牧師試験を行う。
12・7 午前9時より海老名の按手礼が安中教会で行われる。新島「死ニ赴クハ安シ、心ノ戦ニ勝ツハ難シ」、松山「兄姉への勧」、デフォレスト「牧師への勧め」の説教をなし、アッキンソンが按手礼、グリーンが握手をする。
12・8 松井田に伝道する。
12・9 中宿及び前橋に行き生産会社において説教をする。聴衆200余人。道を求める者多く、数回説教をする。一泊する。
12・10 東京へ出発する。
[安中滞在8日間]

第6回来訪

明治15年(1882)39歳


京都-中山道-安中-会津のコース

7・11 徳富猪一郎・湯浅吉郎・奥亀太郎・保坂七之介・伊勢時雄と中山道を京都より東北までの旅行途次(当冊子表紙の行路図参照)、碓氷峠より(馬車)坂本を経て安中に夜八時到着。八重子夫人らに迎えられて湯浅治郎宅に泊まる。徳富らは山田屋(現安中郵便局西隣・清水花店の場所)に泊まる。
(八重子夫人は伊勢峰・江場かねを同伴して神戸より海路、横浜を経由して安中に先着していた)
7・12 植栗義達の家を訪う。
7・14 安中養蚕室にて演説会を開く新島「文明ヲ組成スル四大元素※1」ほか奥亀太郎・森田寿太郎・渥美貞幹らが弁士、聴衆200人。
7・15 原市で演説会を開く。新島「地方教育論※2」 ほか前日のメンバーに杉田勇次郎が加わる。聴衆6~700人。
7・16 安息日、早朝、植村新次を連れ鷺宮の佐藤種五郎宅(妻真規が新島の長姉)に行き、前日より来ている中島浅五郎・植栗義達ら親戚立会いの下に新次の離縁について相談し双方合意に達す。
安中養蚕室でガラテヤ書四章について説教、「種を蒔く」ことについて説く。杉田勇次郎の説教もある。聴衆200人。夜、松井田の養蚕所で演説する。弁士は新島・奥・森田・湯浅で、小学校教員も来て傾聴する。聴衆4~500人。
7・18 新島夫妻は伊勢時雄夫妻を同道して安中を出発、会津若松に向かう。午前11時馬車で出発、高崎で乗り換え、倉賀野野・玉村を経て木崎に至り一泊する。(27日 会津若松に到着)
[安中滞在八日間]

第7回来訪

明治16年(1883)40歳

5・4 安中教会で新築会堂発会式が行われる。
5・8~5・12 第3回全国基督信徒大親睦会が東京の新栄教会・浅草教会・井生村楼にて開催される。安中教会より海老名夫妻・湯浅治郎・上原春朔ら参加。
5・12 参加代表者記念撮影 神田旭楼


右:新島襄
左:内村鑑三

右:海老名弾正
左:湯浅治郎

 前出の写真は、神田旭楼での同大親睦会代表者の記念写真ですが、新島先生は何処におられるか、わかりますか。実は、当時の群馬のキリスト教界を代表する二人の人物が並んで写真に収まっている珍しい写真です。前から2列目の中央、向かって右から4人目が新島襄、5人目が内村鑑三です。安中教会代表としては湯浅治郎、海老名弾正が前列右に座っています。
(この親睦会の後、新島先生は安中に向かいます)


当時の安中教会、通称「碓氷会堂」北東面
(新島学園蔵古写真より転写)

5・18 新島先生は馬車で東京を出発、熊谷に一泊。
5・19 午後、安中に到着する。
5・20 安中の新築なった教会堂で蔵原惟郭と共に説教する。「古キ人新シキ人」
聴衆300余名。
 夜、原市教会にて蔵原と共に説教する。「十人の娘用意ニ怠ル勿レ」
 3、4里外より草鞋がけで来る者があり、聴衆は安中より多いようだった。
5・22 同志社生徒岡本彦八郎(高崎)松本亦太郎(倉賀野)の実家を訪問する。
[安中滞在4日間]

 

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