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新島襄先生の安中来訪について

二期生 淡路博和

【5】

上州を去る…無念の漢詩

 このように安中来訪が合わせて60日間、伊香保と前橋が合わせて90日間、総計して150日間となりました。内容を見ますと、キリスト教の伝道に関しての仕事で安中を来訪した60日と、静養のために伊香保に来られた60日がほぼ同じ日数ですが、最後の前橋訪問で病を発し、残念、募金活動を断念し、療養のため大磯に向かったのでありました。

 その時の新島先生の無念の胸の内を詠ったのが、次の漢詩であります。

秋風蕭颯刀川(しょうさつとうせん)を渡る
去らんと欲して尚看(なおみ)る両野の天
新雁(しんがん)は知らず孤客の意
声々(せいせい)鳴いて到る赤峰(せきほう)の辺

【意訳】
秋の風がもの淋しく利根川を渡った行く、
去ろうとして両野(上野・下野両国)の天を見上げると、孤独な旅人の心も知らずに、新参の雁が鳴きながら赤城の峰を指して飛んでいく…

  この時の新島先生のお気持ちはいかばかりであったろうか。大磯の百足屋でついに先生は46歳11か月余の生涯を閉じられたのであります。「平和、喜び、天国」と呟きながら永久の眠りにつかれたとのことであります。


「新島襄先生臨終図」
久保田米僊筆 明治23年1月

 画面の中の人たちの名前は、推定との事ですが、病床に臥す新島先生を囲んで、手前向かって左が、医師J・C・ベリー、黒羽織の人が八重子夫人。向こう側左から、不破ゆう、徳富蘇峰、永岡喜八の皆さん。

 

安中での新島先生の演説2つ

註 原文は漢字と片仮名ですが、読みやすいように平仮名とし、さらに送り仮名も現代風に改めました。

一、演題  「文明ヲ組成スル四大元素」
第6回ご来訪の時
明治15年(1882)
7月14日
安中養蚕室にて

○智識、財産、自由、良心の働きを養生する事。この内一つも欠くべからざること、あたかも卓の四脚あるが如し。この内誰をか重んじ、誰をか軽ろんずるや。君子国をなすには(別記には天国をなすには)良心を養生する事を最も貴重とすれども、文明国をなし、文明の社会を組織するには、この四大元素のうち一つも欠くべからず。

○未開の人あり、如何にして進むや。

△智識の開発を要す。
家の改良、道具の改良、製造、運搬、旅行等、随って生じ、随って財産の増殖を生ず。

△財産の増殖
資金を・・と元とし、またそれを以て増殖の元手とす。財産は最も常人の要する所、これあり文明の民たるに足らず。一の金満家財産増殖に無理をなす。

△自由の皇張
身分上の自由、財産土地所有の権の自由、国民たるの自由、公平適宜の法あり、よく自由を獲る。縄墨ありよく画をなすが如し。
 (二種外来の自由、心中の自由)

△道心の発育、(神の愛する所を愛し、神のに悪くむ所を悪くむ)

○智識、財産、自由を運転せしむ者、□の譬え。

○安中の信者に望む所、良心の働きをなさざれば、私の論は兄姉のために打ちつぶさるるなり。


二、演題  「地方教育論」
第6回ご来訪の時、
明治15(1882)年
7月15日 39歳
原市で演説会を開き左の講演をなされた。

「原一(原市)に於いて」

 地方教育論
ドイツに30の大学
英国に34の大学
スコットランド3つ
米国に368

  教育について論ずるに何の差別もあるまじきに、何故地方教育論をなすかを問えば、答え曰わん、我国の教育の如きは「東京」中央に集まり、何学も中央に行かねば学問のなき事に成り行き、また中央の地に於いて受ける所の悪風は生徒を腐敗せしむるに□し。これを薫陶し、これを養生するに勢力の乏しき事あれば、今日の勢を以て論ずれば真性の教育を地方に布くに如かず。

○地方に布かんとすれば、先ず地方の有志輩協同一致して拠金をなし、その任に当たるの人を選み、上等小学卒業生のその校に進み、高等なる学科を学び、経済の大意なり法律の大意なり、物理学、器械学等の大意なり、農学の大意なり普通を教えしめ、卒業の上はひと通りの教育を受けたる人となり、地方にまいり如何なる役も勤まり、県会議員なり一会社の長なり、一の農家の戸主なり、ひと通りの学問ある上は、仮令、無事の日には日向にあり、各々の家業事を預かるも、一旦ことある時は地方の率先者となり、村落の骨となり、教会の基となり、自由を皇張し、また物産をすすめ、人々にも良き手本を示し、学者たる者は自ら先生となるにあらずして、却って身を社会の犠牲となし、社会の進歩を計るの人を養成せば、我国何ぞ振るわざる。我民権の起きざるを憂えん。義塾を起こし、往々これを米国のコルレジの如きものとなし、広く学びたる人を養成するに如くはなし。

○米国のガーウヒールド氏の如きはコルレジの中葉の人な□は、自由民権の養成所はこのコルレジにあり、この義塾の挙なくんば如何にして国の勢力を養い得べきぞ。海陸軍を増すは弥末の浅論なり。


切支丹禁制の高札

これは慶応4(1868)年の切支丹禁制の高札です。
 全国の村々の要所や宿場町の高札場にかかげられた高札の写真です。

一 切支丹宗門之儀者是迄御制禁之通固く可相守候事
一 邪宗門之儀者固ク禁止之事

慶応四年 太政官


日本に於ける信教の自由

 明治新政府もこのように、江戸時代に引き続き、当然のように切支丹禁止を続行致しました。
ところが、明治4(1871)年の秋、右大臣岩倉具視が全権大使となり、木戸孝允・大久保利通らを従えて欧米列国を歴訪した時、アメリカ政府から、キリスト教禁制の高札は不当であるという抗議がありました。そこで、新政府も明治6(1873)年2月24日、明切支丹禁制の高札を初めて撤去したのです。
 しかし、撤去の理由は、キリシタン禁制は既に一般に知られているから高札をおろす、というだけのことでした。いわば諸外国からの圧力をかわすためでしたが、それでも、一般にはキリスト教の解禁と理解され、キリスト教の宣教活動が公に行えるようになったのでした。

 

▼新島七五三太が帰国したのは、その翌年の明治7(1874)年11月でした。
 明治22(1889)年発布の「大日本帝国憲法」も信教の自由をうたったが、これも「天皇の臣民として国民の義務に背かない」という条件付きででした。

▼日本に於いて信教の自由が人々の基本的人権として認められたのは、昭和22(1947)年発布の「日本国憲法」によってでありました。

 

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